パウダースノウ  漆

 久方ぶりに眠れば、不可解な夢を見て目を覚ました。綾音が、泣いているのだ。
 足元にはあの光る、薄桃の華が無数に咲き乱れる黒一色の空間で彼女は泣いていた。私が立つ場所にすら雪が無く、足袋を履いたその下は水面のように時折波打ちながら、そこにある華々と私の姿を映すばかり。それは明らかに夢だと解る歪な風景だった。
 綾音が、私に気が付く。何か声をかけながら此方へ向かって来ようとしているのだ。
 私はそれに応えるように、足元の華を手折っていく。彼女が此方へ来るための道を作ろうと、彼女の『ロッキンホースバレリーナ』を、あの毬の様な膨らんだ『スカアト』を汚してしまわないようにと。外側へ向けて一つずつ丁寧に、細長い茎を低い位置から折り曲げる。
 そのうちにふと、顔を上げれば何故か、彼女は遠くにいた。薄桃の花弁を撒き散らしながら花をかき分ける最中、彼女の姿は徐々に遠ざかっていく。
 私は毎度、彼女の元へ辿り着く事が出来ぬまま夜を明かす。それはまるで、二度と彼女に会えないのだという現実を指しているようだった。
 遠くで鐘の音がする。風に乗って聞こえた高く澄んだ音は、いつか綾音が教えてくれた婚礼の儀の鐘なのだろう。長らく止まず、小屋の中にいた私の耳にも響いた。
 綾音は泣いてはいないだろうか。まだ、あの赤い羽織りを着ているのだろうか。あの不安定な履物を履いているのだろうか。
 女々しい事この上無いと知りながら私は外に出て里の方へと視線を投げる。朝方まで降っていた雪は既に止んで、雲間から僅かに太陽が照らしていた。

 葛籠の中から母の日記を見つけたのは、綾音を拒絶してから随分と後のことだった。からくり箱のついたあの光る華を目に入れる事が辛くて仕舞いこもうとしていた最中、偶然にそれは見つかったのだ。
 綴られた字は何れも古ぼけて、色褪せていたが読めない程ではない。何の気なしに読み始めたそれは、私の父に当たる男と恋に落ちたところから始まり、どうにか人里で暮らそうと苦労した話が屑々と綴られていた。
 母の気持ち、男への想い、そして私を身籠った時の事、連綿と連なる文章の中に、若き日の母がいた。それを覗き見している気分になって私はそれを閉じようとするも、最後の頁に目が留まった。
 母が、溶けて無くなった時の事が記されていたのだ。

――総ての想いは、あの人が持って行ったのでしょう。
  幾夜を過ごし季節が巡っても、貴方を忘れる事は出来なかった。
  残して逝く此の子より私は貴方だけを慕い愛しているのです。
  願わくばどうぞ、人の身の様に次の世が有るのならば、私は貴方と結ばれたい。
  人として、人の世を、貴方と生きてみたいのです。

  貴方を失くして如何して生きられましょうか。
  親は無くとも子は育ちます。されど私は貴方無しには生きられません。
  幾星霜を経て今、永かった孤独が終わるのを此の身に感じています。

  どうか、どうか貴方と同じ場所に。
  最果ての地で巡り合わんことを――

 小屋の外ではまた雪が降り出していた。戯れに、私はその中に体を横たえる。初めて会った時の綾音のように。
 粉雪は確かに、私の髪に肌に、着物に積もっていくのに、私が凍えることはない。この目を潰して欲しかった。この手を凍らせて欲しかった。そうすれば、綾音の事など想い出さずに済むというのに。
 私に『死』は無い。ただ、溶けて、無くなるだけだ。半身は人のもののはずなのに、自身を傷つけてみても、傷はたちまち凍てつき、痕跡さえ残さずに平らな肌に戻る。
 綾音は、バケモノだと理解してくれただろうか。納得がいかない様子ではあったがあれだけ脅しておいたのだ。もうこの山に立ち入ることはないだろうが、不安は尽きない。
 私に関わって不幸になるよりも、人の里で人の男と子を為し、生きていく方が彼女の為だという考えは間違いではない筈だ。
 それなのに、どうしてこの胸はこんなにも、痛むのか。
 答え等、とうに知っている。私は綾音と生きていたかったのだ。自身がバケモノであると知りながら彼女を娶り、子を為し、老いた彼女と共に死にたかったのだ。傷一つ無いことが信じられない程、苦しい程に、この脈打つことの無い胸は確かに痛むのに、私はバケモノであり彼女は人の子。それが覆されない限り叶うことのない夢物語だ。
 綾音は、それでも私といることを選ぼうとした。里を捨て、親兄弟を捨て、私と生きようとしてくれた。私はそれが嬉しかった。だからこそ、突き放す必要があったのだ。
 彼女はあと百年しないうちに死ぬ。私はまた、独りになるだろう。子を為したとして、その子が人であれば人里で育てる必要がある。私の住処で童が生き延びられるはずもない。雪女だったとして私が独りで育てられるのか。
 人の世も難しいのだとは知った。だが、私に彼女を救う術は無い。まさか心中しようとて、この身体は頑丈で、首を刎ねてすら死ねるのかも怪しい。綾音に私を殺せるかと問えば答えは不可だろう。
 だから、これで良かったのだ。幾夜も考え続けた事、今更覆す気などない。
 母の日記から察するに、私もいつか孤独に耐えきれなくなった時に溶けて無くなるのだろう。尤も、それが何時になるのかは今の私には伺い知れぬ事で、まだまだ途方もない時間を生き続ける可能性はあるのだが強い孤独が引き鉄に成ると言うのであれば明日も知れぬ事もあり得る。
 ただ今は、綾音が私の事を憶えていてくれると言うのならそれでいい。私はこの地で、彼女の名前を呼び続ける。彼女が言った『忘れられる事こそが死だ』というのが本当なら、私は彼女の中で生きていける。
 いつか綾音すらも私の事を忘れてしまう日が来るのだとしても、私が忘れなければそれでいい。人の生は余りに短いのだ。永遠等無い。
 そしてこの身がいつか粉雪のように溶けてしまう時が来たら、綾音の記憶ごと終わりに身を任せよう。もしも最果ての世界があるのなら綾音もそこにいるのだと信じて。


close
横書き 縦書き