パウダースノウ 6
あたしは月白を残して山を下りた。小指は山を離れると共に回復していったけれど、くっきりと、赤い跡が残ってしまった。
月白とあたしは、上手くやっていけるのだと思っていた。元から町の中であたしは浮いていたし、今更、頻繁に山に行くからって白い目で見られようが後ろ指を指されようが大した問題じゃない。はみ出し者で嫌われ者なら、お互いに上手くいくんじゃないかと思っていた。
その月白が、あたしを否定した。
“娘”と吐き捨てるようにあたしを呼んでいたのに、気が付けば“綾音”と名前を呼んでくれるようになっていた。それがまた、“娘”“人の子”と呼ぶようになった。
自己満足と言われようとあたしが何かしたなら、謝りたかった。でも、それすらも迷惑なら、そっとしておくのが一番いいのだと思う。その一方で本当にそれでいいの?と問いかける自分もいる。
小走りだった速度がどんどん落ちて、トボトボ歩きながらの自問自答に答えは出ない。
彼の言う通り、あたしはただの人間で、健康に気を使ったり体力をつけたりしても、百年経たずに月白を残して死んでしまう。逆の立場なら、泣いて縋って、いっそ一緒に死なせてくれと願うと思う。
これを恋だと認めてしまえば、きっと月白は苦しむ。それ以上に、あたしが悲しむ。だから、あたしの為に突き放したのだ。
ぼたぼた、涙が溢れて足元の雪を溶かす。みっともない顔なのはわかっている。最後まであたしは、彼に甘えてしまった。自分で思っている以上にあたしは子供で、無力だ。失くした恋の一つでこんなにも動揺するのだから。
家にたどり着いてからも私は自分の部屋にこもって泣き続けた。食事なんて喉を通るわけもない。コートを脱ぐことも化粧を落とすことも何もかも忘れていた。
あたしはきっと、あのオッサンと結婚するハメになる。どれだけ嫌だと泣いても喚いても、もう月白と結ばれることはない。二度と会えないのかもしれない。諦めが付くはずもないこの恋を、みんなどうやって乗り越えていくんだろう。
泣いて泣いて、やがて涙が枯れる頃、窓の外には雪が舞い始めた。
サラサラしてない、ベタっとした雪だった。窓ガラスに当たり、あっという間に水に変わってしまうそれは、月白が泣いているみたいだった。
徐々に窓の向こうの雪は激しさを増し、激しい吹雪へと変わっていく。もしもこれが月白の悲しみや苦しみなら、あたしはこの雪で、寒さで、殺されたかった。
目を閉じれば、瞼の裏の暗闇にあのピンク色の花が咲いていた。ぼんやりと光るそれは無数に広がって、はるか遠くに青白い影を見つける。月白だ。
声を張り上げても彼はこちらを振り向くことは無く、無表情で一本ずつ足下の花を手折っていく。あたしの姿なんて見えていないみたいに、手折りながらぐんぐん先に行ってしまう。
――お前はここへは来れないのだろう、綾音。
振り返って寂しそうに、一言。距離はかなりあるのにハッキリと耳元でささやかれたみたいに聴こえる。
――お前は、人の子だ。里で人の男と夫婦となり、子を為すのが自然なことだ。
待って!と叫んでもその声は音にならなくて、月白には届かない。あたしは走る。周囲の花をなぎ倒して、踏みつけて、ロッキンホースで懸命に走る。けれど、幾ら走ってみても息が上がるばかりで近づいていかない。それどころか離れていく気がする。
――私が人だったら、若しくは、お前が異形なら……お前と暮らせたのかもしれんな。
行かないで、お願い。貴方となら、雪山で過ごすのだって平気なの。新しいドレスも、お気に入りのぬいぐるみも捨てていける。だから!
――綾音。お前は人の子だ。何度も言わせるな。無理難題だというのに。
足首に巻き付けていたリボンが切れて靴が脱げた。そのまま転ぶ。あたしが沈むのと入れ違いに音も無くピンクの花びらが舞い上がる。その間にも青白い影はぐんぐん遠ざかっていく。その場から動けずにいるあたしの上に青白い花びらが、違う、雪が、降ってきて。彼の姿もピンクに光る花畑もすべて、覆い隠してしまった。
目が覚めた時にやっと『夢だった』と気付かされてまた涙が出てくる。あたしの体の中にまだ、こんなに水分が残っていたのか、なんて悲しいを通り越してむしろ笑えて来た。
冷え切った部屋の中に、あの光るピンクの花は勿論、月白の面影すら残っていなくて、ただ悲しそうな声だけが耳から離れてくれなかった。
その年の冬は、例年以上に酷い雪が続いて一部では凍死者も出たと聞く。川も池も、窓ガラスも凍り付いて、家畜もたくさん死んだ。
ようやく雪が溶けてきた頃、香川がやってきて、パパの同意の元、私を押し倒しそのまま犯した。冬が終わるのと同時にあたしの心も死んだ。
あたしは、このオッサンと結婚する。月白を残して。