パウダースノウ  はち

 物置にしていた部屋のクローゼットの奥深くで真っ赤なチェック柄のワンピースを見つけた。セーラー襟のブラウスや、レースを縫い付けた刺繍のカーディガンとベレー帽、ファーのポンチョや年代物のロッキンシューズ。
 隠すみたいに衣装ケースにぎゅうぎゅう詰めにされたそれらは、埃を被ってはいたけどとても可愛くてあたしの好みにピッタリ一致した。
 あたしはその宝の山から、一番上にあったブランケットを持って、持ち主だろう人に譲ってもらえないか交渉に行く。
「お母さん!これ、クローゼットの奥で見つけたんだけど……あたしにくれない?」
 キッチンにいた母に尋ねてみるが知らないという。ブランケットに入ったイニシャル刺繍がAだったからきっと母だと思ったのに。その他にAが付く人物は――
「……それは、おばあちゃんのじゃないかな?」
 あたしのおばあちゃんは、年に一度会うだけの人でいまいちピンと来ない。しかも、まだ五十歳を過ぎたばかりなのにボケちゃってるから、マトモに話したことだってなかった。
「おばあちゃん、若い頃はお転婆で町の裏の雪山まで出掛けてたって聞いたことがあるわ。いつも赤いワンピースを着て、木底の変わった靴や当時珍しかったブーツを履いていたって。お母さんもあんまり話せなかったんだけどね。」
 いい機会だから、少し話そうか。そう言いながら母は食器を洗う手を止めて、暖かい紅茶の支度を始めた。

――昔。綾音おばあちゃんがまだ十代の少女だった頃、町は酷い寒波に襲われてこのままでは死人が出る!というところまで追いつめられていたの。そんな時に町へ多額の寄付を申し入れてくれたのが、おじいちゃん。
  おじいちゃんとおばあちゃんは随分と歳が離れていたけれど、町への寄付の事を考えるとおばあちゃんは断るに断れなくて……半ば強引な縁談だったけれど、二人はそのまま結婚し、すぐにお母さんが産まれたわ。
  けれど、おばあちゃんには心に決めた人がいたの。どこの誰かは知らないけれど、おばあちゃんはずうっとその人の話をしていた。それは空想じみた話で、そのまま信じるには少し無理があったし、多分……お母さんに聴かせる寝物語のつもりだったんじゃないかな?お伽話のような、ちょっとだけ悲しい話だった。
  雪女の血を引いたオバケがいて、雪山で独りきりでくらしていて……そのオバケは寂しがりで古臭い言葉を使う面白い人で、とても優しい人だったって。
  オバケかどうかはさておき、おばあちゃんはきっと、その人と結婚したかったんじゃないかな。段々と……心が、壊れちゃったのね、ボケたみたいになっていってね。まだ貴方……藍音が産まれるより前から、少しづつおかしくなっちゃって。ずっと裏手の山を見つめているようになっていったの。あの山に本当は何があるのかは判らないけど、雪の日や風の強い日には必ず、窓際の椅子に腰かけて食事も採らずに……見つめていたの。
  一度、何を見ているのか訊いてみたの。吹雪の夜、今にも飛び出していきそうな程に窓に張り付いていたから、気を逸らすつもりでね。
  『げっぱくがないてる』
  『あの人は一人きりだから』
  お母さん、何を言ってるのかわからなくて。困っちゃって……オバケのモデルになった人の名前なのか、それすらもわからないまま。それ以降、その話はしてくれなかった。

 母はそれきり口をつぐんだ。というより、泣くのをこらえているようにも見えた。冷め始めた紅茶のカップの中身をただ見つめるしか出来なくて、二人してダイニングテーブルに掛けたまま無言でいた。
 どこか、縁遠いと思っていた綾音おばあちゃんにも若い頃があって、人並みに恋愛をしていたというのが今一つ信じられなくてその夜ベッドに入ってからも色々想像してしまった。
 映画や歌の中以外にもそんなドラマチックなことが起こりえるのだろうか。あたしにも、そんな恋をする日が来るのだろうか。

 綾音おばあちゃんが息を引き取ったと聞いたのはその翌週の事。平均寿命が九十歳と言われるこの時代に、おばあちゃんはたったの六十年も生きないで終わってしまった。
 派手に悲しむ人は少なかったし、酷い人になると『厄介払いができた!』とでも言いたげな目を向ける人もいた。接点が少なかったとはいえ、そんなに嫌なものを見るように毒を吐くなんてあたしにはできない。
 葬儀の日は季節外れの酷い吹雪で、嵐とでも呼んだ方がいいくらいに空が荒れていた。雪だけじゃなくて氷の礫までが家々にぶつかり、ぱちぱち小さな音を立てる。窓の外は一面、濃紺と白で塗りつぶされていた。
 葬儀の後、数日してから……どうしても気になってあたしは、身支度を整えて裏山へ足を踏み入れた。
 あたしが産まれるよりも昔には、何度か雪崩や獣害があって町との境目には大きな壁ができた。この壁を作るのにもたくさんの人手とお金が必要で、おじいちゃんが寄付したのだと聞いている。門をくぐり、一歩町の外へ出れば裏山への道は無くなりかけた細い獣道が一つだけしかなかった。
 木々が絡んで行く手を遮るけれど、とにかく確かめたかった。この先に何があるのか、おばあちゃんは何をそんなに気にかけていたのか。
 冬の初めで気温は低く、先の猛吹雪で地面は水っぽかったけれど、ブーツなら歩ける程度ではあったから気にせず進んだ。
 暫くして開けた場所に出ると、廃屋があった。近年は大雪が降ることも減ってそうでもなかったけれど、元々は万年雪に覆われた山だったから僅かに雪が残っていて、その雪に隠れるようにひっそりと残った木製の小屋はボロボロで今にも崩れそうだった。
 一瞬躊躇ってから、靴のまま中に入る。薄暗く、床板が所々腐っていて長居はしたくない、不気味な場所だった。
 コツ、とブーツの先に何かが当たって足下に視線をやると、旧式の電池ボックスが付いたチープな花のオブジェが転がっていた。今時珍しい、綺麗に言えばアンティークのそれは花弁が少し欠けていたけれど、電池式でスイッチを入れると埋め込まれたグラスファイバーが光るというもので一時期流行したと聞いたことがある。恐る恐るスイッチを入れてみるも、やはりライトはつかなかった。
 小屋の中はどれもこれも土埃と雪焼けでボロボロで汚らしいし、長らく人の手が入っていないように思えてそれ以上探索することは諦めた。ただ、何故か花のライトだけは、おばあちゃんの顔がよぎってバッグの中に入れ、持ち帰ることにした。
 小屋を離れてまた、獣道を通り下山しようとした時に地響きがしてあたしは転んだ。何事か、と周囲を見回すとついさっきまで足を踏み入れていた小屋がバラバラに崩れ落ちていた。

   ***

 その夜は不思議な夢を見た。クローゼットで見つけた赤いカーディガンとベレー帽、セーラー襟のブラウスを着た女の子と、青白い長髪に和装の男女が主人公で、あたしは映画でも観るようにただそれを眺めていた。
 足元には満開のピンク色の花、辺り一面真っ暗なのに、二人のシルエットと埋め尽くすほどの花が光を帯びていて意外なほど明るい。
 二人はそっと抱き合うとそのまま女の子の方から手を繋いで、遠く、遠くへと歩いて行く。二人が遠ざかる程にあたしの視点に近い場所からピンクの花はバラバラに花弁を散らし、その一つ一つが雪となって消えていく。
 花も、雪も淡く光っていた。それらが全て闇に溶けて無くなってしまったところであたしは目を覚ます。ベッドから起き上がり、自分の部屋の机を見てぎょっとした。昨夜置いておいたはずのあの花のオブジェが、まるで氷が溶けたように水たまりになっていたから。
 不可解さに頭をひねりつつも水の後始末を済ませた後、母の許可を得ておばあちゃんの衣装ケースを部屋まで引っ張ってきて中身を一つずつ取り出す。形見分け、というやつ。
 タータンチェックのブランケット、ブロックチェックのワンピース、セーラー襟のブラウス、バルーンスカート、パニエ、ドールコート……その一番下に小さな封筒を見つけた。日の当たらない位置にあったおかげで焼けてもいない綺麗なそれは雪の結晶をモチーフにした青白い封筒で、宛名も差出人の名前も無く、封さえされていなかった。
 中身も封筒と同じデザインで、ブルーのインクで女の子らしい可愛らしい字が認められていた。


――月白、貴方を独りにしてごめんなさい。
  あたしは今日、あの男と結婚します。子供が出来ました。
  特別幸せでもないけれど、めちゃくちゃ不幸、とも言えません。

  こんなに短い時間で、あたしは貴方に恋をしました。
  叶わない恋だとしても報われなくても、いつか終わりが来るのだとしても
  もっと貴方と一緒に居たかった。
  貴方があたしを追い返したのは、優しさだと知っています。
  消えない左小指の傷を見る度に思い出します。

  月白に、会いたい。
  いつか私がおばあちゃんになって、死んでしまって幽霊にでもなったら
  また、会えるかな。
  今度は二人とも人間か、二人ともバケモノか……で、恋愛しよう。
  貴方がいくら拒絶したって、今度こそ絶対に傍にいるから。

  月白が独りきりでさみしい思いをしなくて済むように、私は町から見守ってるね。
  さみしい時にはどうか、町を見下ろしてみて。――


 どうしてだろう、涙が止まらない。
 母が知らなかった『げっぱく』の意味を知って、あたしは漸くすべてを理解した。おばあちゃんの恋の相手については、今もよく解らない。まさか、雪女がいるだなんて信じられない。
 ただ、あたしが体験した様々な不思議や違和感は、雪女がいるのだとお伽話を信じれば合点がいく。おばあちゃんは、人じゃない何かと恋をしていて、結ばれはしなかったけれどその後もずっと、彼を忘れられなかったんだ。
 おじいちゃんが可哀想だとも思ったけれど、強引な縁談だと聞いているし、あたしの知らない何かがあったのかもしれない。そのおじいちゃんもとっくに死んじゃったし、真相は解らない。
 ただただ、自分の失恋のように胸が痛んで涙が止まらずおばあちゃんともっと話しておくんだった、と後悔が押し寄せてきた。
 十六歳で恋人と理不尽に引き裂かれて、好きでもない男と結婚するなんて私だって嫌だ。不透明なことが多いまま感情移入して、物語を真に受けて泣くだなんて端から見たら滑稽だろうけど、あたしは泣き続けた。
 
   ***

 人は今でも、雪女の話を知っている。けれど、その続きはどれだけの人が知っているのだろうか。
 人の男と恋に落ちて子を身籠り、産み育てて尚、愛した人を忘れられないまま溶けて消えた悲しい雪女の話と、その子供の話を。
 雪女の血を引いて、雪山の小さな小屋で人を避けて暮らし、たまたまやってきた人間の女と恋をして別れ、孤独にも飽いて溶けて消えた雪女の子の話を。


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