パウダースノウ


 目の端に映る綾音は、何が何だか解らない、という顔をしていた。
 母の葛籠から出てきた古い物語の中にあった、想い人同士の醸し出す雰囲気に似ている、と察知した時点で私は全力でそれを崩しにかかった。
 もし、綾音が此の儘、私と暮らすことを選ぶならそれでも良い。そう考えていた節もある。綾音が此処を逃げ場所として利用するのは勝手だ。だが、人の世を捨てるというなら話は別だ。
「どうしてそんなこと言うの…?お母さんだって人間と恋をした、なら月白があたしと恋したっていいじゃない!」
「五月蠅い、黙れ黙れ!五月蠅いのは好かん、そろそろ口を閉じろ。」
 理屈で言えば、綾音の言う通りかも知れない。だが、それが如何した、私はそれを許さないだけだ。
 私が母と同じように、人に変化して人里で暮らせる筈も無く、綾音がこの雪山で碌な食糧も娯楽も無い中、暮らすことは不可能だ。
 私とて出来得ることなら綾音と夫婦に成りたい。愛だの恋だのと言う感情はよく解らずとも、彼女と居られる事が幸せなのは間違いない。だが、物理的にも人の道義的にも、不可能である以上、今以上に胸の内の思慕の情を認めてしまうのが苦しい。
 彼女を突き放し、私は小屋を出る。髪を一本引き抜いて振るえばたちまちそれは凍り付き、針のように固くなる。私を追って小屋から出てきた綾音のすぐ傍にそれを投げると、音も無く彼女の頬を薄く裂いて外壁に刺さる。
「私は、バケモノだ。お前たち人とは違う。人の感性で語るな、反吐が出る。」
「――月白は、人になりたいの?」
 綾音の問いかけに、私は答えられなかった。
 人であれば、綾音と夫婦に成れたのか、と考えた事はある。考えた事はあれど、天地が引っ繰り返ろうと無理なものは無理だ。
 人を騙しきるだけの妖力も持たない、半端者の私は、厳密に言えばバケモノですらない異形の“何か”だ。母のように人に恐れられる雪女であれば、綾音のように私に特別な感情を抱く者も現れ無かっただろうに。
「月白は、雪女の血を引いているかもしれない。確かに、私たち人間とは肌だって、髪だって、目の色だって違う。体温だって、寿命だって違うよ。けど――人間よりよっぽど、優しいじゃない。」
 大きな黒い瞳に涙が溜まっていく。
 泣くな。私のような異形の者の為に。
 泣いてくれるな、頼むから。お前を抱いてやる事すら叶わないのに。
「この一か月、どれだけ月白に救われたかわかる?『町長の娘』じゃなくて、あたしを『綾音』として見てくれたでしょ?月白が人じゃなくても、あたしはやっていける。今より孤独になる事なんてない。ずっとずっと長生きして、ずうっと傍にいるから……」
「自惚れるな、娘。」
 敢えて、綾音が傷つく言い方をする。自身に言い聞かせるようにも。
「お前のような小娘が愛だの恋だのと片腹痛い。自身の役目を察しているのならそれに徹しろ。矢張り戯れに人の子を関わったのが間違いだったな。」
 見る間に溜まっていた涙が溢れ出し、頬を伝う。今し方私が作った切り傷に涙は滲み、珠に成って落ちた涙が赤い着物を濡らす。それを見た私も、自分が傷ついたかの如く胸が痛んだ。
「人の里に戻れ。私はお前など如何とも思わん。今すぐにお前を刻むことも容易いぞ!」
 氷の礫を作り出し力任せに彼女に向ける。薄紅色の頬を、暖かな手を、細く長い足を切り刻まんと差し向けたのに綾音に届く直前でそれは失速し、それ以上には、傷一つつける事はできなかった。
 私は出来れば、彼女を、傷つけたくはないのだ。
「……ほら、躊躇ってる。」
「本気で死にたいらしいな、糞餓鬼が。」
 髪を幾らか引き抜き冷気を纏わせて飛ばせばそのうちの一つが彼女の左の小指に絡みつきギリギリと締め付けながら凍り、骨ごと落とさんばかりに痛めつける。
 ここまでしてようやく、綾音は顔色を変えた。私は尚も綾音を睨みつけながら、指先に氷の結晶を生み出す。薄く大きなそれは放り投げれば人の首など瞬時に刎ねることができる。見せつけるかの如く、一回り小さなものを林に放る。視界の外れで鬱蒼と茂る木々の一つが大きく傾いだ。
 彼女の指に絡んだ髪を外してやり、一言だけ告げた。
「失せろ、人の子。」


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