パウダースノウ  4

 早朝から酷い雨で、川が溢れかえるんじゃないか、なんて大人は心配していたけど……あたしが気になったのは月白の事だった。
 あの小さな古い小屋がこの雨風で壊れてしまうんじゃないかと思ったし、月白が寂しがるんじゃないかと思った。あたしも寂しかったけど、一応、自分の部屋にはお気に入りのぬいぐるみもあるし、毛布も本もある。けど、月白はあの小屋に一人きりだ。
 家にいたって寂しいことは寂しいけど、月白が抱える『一人きり』とは、ちょっと違うんだと思う。あたしが感じる『寂しい』は、周りの誰もがあたしをあたしとして見ていない事だけど、彼は本当に一人きりで『孤独』だから。
 月白が雪女の子だっていうのは、もう疑ってない。あたしが知らないだけで、世の中にはいろんな不思議があるんだと思うし、何年も何年も、あたしにとっては当たり前の知識を知らずに生きているのだから。囲炉裏があっても火を使わず、食べ物を求めて町に下りて来ることも無い。何か不思議な力があることは間違いないと思う。
 ただ、だからこそ心配だった。お母さんが死んじゃってからずっと、あの場所に一人きりなら、あたしでも、話し相手くらいにはなれたのかもしれない。急に来ない日があったら少しくらい、寂しいんじゃないかって……心配するふりをして、自分勝手な想像をした。
 青白い髪も、藤色の眼も、あたしはいつの間にか好きになってた。もしかしたら、怖いとか不気味とか思わなかった最初から、彼に一目惚れだったのかもしれない。だから、彼があたしを必要だと思って、寂しがってくれるなんていう、都合のいい妄想をするんだ。
「綾音、入るぞ。」
 ドアのノックを聞き逃していた。パパの声に振り返るとドアは開き、パパともう一人、薄暗い廊下の奥に豚みたいなオッサンがいた。
「なんだ、まだパジャマなのかだらしない!香川様がおみえなんだ、早く身支度なさい。」
 香川。コイツがあたしの婚約者だ。だらしないのはそっちだろ、と言いたくなるようなでっぷりしたお腹はスーツのベルトに乗っていて、寒い季節なのにふぅふぅ言って大汗をかいている。
「……すぐ着替えるから。ドア閉めて。」
「ああ、なるべく早くな。いつもの妙なフリフリは着るなよ、香川様と下で話しているからな。」
 ニタニタと気味の悪い笑顔のオッサンと目が合う。その目は確かにはこちらを見ていた。まだパジャマにカーディガンという、年頃の娘の格好を見て笑うなんて、どこからどう見ても醜悪で気持ちが悪い。
 パパはドアを閉めて立ち去った。廊下で何か話している声するけど、くぐもってよく聞こえない。暫くするとその声も遠ざかった。
 あたしは敢えて、パパの言う『フリフリ』を着る。下着をつけてタイツ、ドロワーズ、パニエ。それから立ち襟のブラウスと赤チェックのワンピース、頭には赤いカチューシャも。
 いつも通り、大き目のバッグにブランケットを詰めて、黒いファーのついたポンチョを一緒に持って自分の部屋を出ると……ドアを開けた途端に、巨体が伸し掛かってきた。
 香川は、あたしの部屋の前で待っていた。内開きのドアだから肉壁とあたしを阻むものはない。抵抗する暇も無く抱きすくめられた。
 柿が腐ったような嫌な臭いをどぎついコロンでごまかそうとして、もっと臭くなったところに汗が混じって最低最悪の臭いがする。肌が粟立つ。気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い!
「十六だって聞いて、まぁだまだ……子供だと思っていたんだけどねぇ……悪くないね、このメイド服も実にイイ。綾音ちゃんが結婚相手なら、すぐに跡継ぎを産ませてあげられそうだよ、ひ、っひひ……」
 腰に伸びた手を振り払い、渾身の力を込めて香川を突き飛ばした。反撃されるとは思っていなかったのか自重に負けたのか、大きくよろめいた隙にあたしは駆け出した。階段を駆け下りてロッキンに足を突っ込み、リボンを結ぶ時間も惜しんで一目散に外へ。
 家から少し離れた広場のベンチで足首のリボンを結わえ、息を整えているとざわざわとした声が近づいてきた。香川を含め、家族が探しているのかもしれない。咄嗟に植え込みに身を隠し、息を殺す。
「綾音!出てきなさい!」
「あ、綾音ちゃーん。怖いことなんてしないよぉ……だっだ、大丈夫……大丈夫だからー。優しくするよぉぉ」
「ひと月余り自由にさせただろうに、なんて子だ……香川様、申し訳ありません……」
 やっぱり、あたしを探していた。香川の声が耳に入るだけで気分が悪い。大体、結婚は春だって言ってたくせに、今からもう手に入れたつもりなのか。
「いぃ、いえいえ。いいんですよぉ……ただ……結婚できない、となると……へへ……その、町への寄付もねぇ……ちょっと……考えないとねぇ……」
 本当にクズ。なんでそんなにあたしに執着するのかわからないけど、町への多額の寄付と引き換えに結婚て、本当に身売りと何も変わらない。
 声が遠ざかるのを待ってから植え込みを出る。緊張で心臓が早鐘を打つ。
 今は、町の人間ほぼすべてが敵だ。香川が町への寄付を止めれば、税を上げなくてはならない。町長である父はそれなりに手を尽くしたらしいけれど、河川や橋の補強、山からの獣の侵入を防ぐ電気柵、細々としたお金がいくらあっても足りない。
 あたしにできることは、潔く、香川と結婚して香川の跡継ぎを産み、支援させてこの町を潤すことかもしれない。でも、出来得ることならあたしだって、人並みに恋をして、好きな人と結婚して、生きていきたい。
 人が居ないタイミングを見計らって、町を出る門へ走り出した。
どこの誰とも知らない輩に、あんなオッサンに飼われるくらいなら、あの時、山で朽ちてしまえばよかった。今すぐに、早く、月白に会いたかった。得体の知れないジジイより、バケモノでも月白がいい。
 新雪に足を取られて派手に転んだ。雪にまみれてべしゃべしゃで、正直好きな人に会いに行くカッコじゃないけど、彼に会いたい。
 開けた道じゃなくて、わざと鬱蒼とした木々の合間を縫って進んだ。白一面の雪の中に赤いドレスじゃ、見つかってしまう可能性もある。見つかってしまうのはあたしにとっても、月白にとっても不都合だ。
 時々、枯れ枝が刺さった。けれど、気にも留めない。今すぐにあの小屋に行きたい。
 林の切れ間からまた、雪景色が覗く。もう、目の前。ロッキンが沈み込みながらも、あたしは脚を前に出す。その時、小屋の戸が開いて月白が顔を出した。

「……と言う訳なの。いくら何でも酷過ぎるでしょ。」
 迎え入れられた小屋の中、今日は早々に持ち込んだライターで囲炉裏に火を起こした。
ここに辿り着くまでにできた傷も大したことは無く、肌の上に白い筋を作っただけで済んだ。
「自ら相手を選ぶ事は難しいのか。」
「うん……やっぱり町のこと考えると……無下にもできないし。ただ、アイツと結婚するなら、死んだ方がマシ!って思うこともある。」
「莫迦な事を。死して悲しむ者も多いだろう?」
「でも、何かで読んだ受け売りだけどね。肉体の死は別にいいの、いつかみんな通る道だから。その人の遺した物や生きた痕跡が残って、それが風化して忘れられちゃって初めて、本当に死ぬんじゃないかって。」
「人という生き物は難しい事を考えたがるな。其処に居なくなる事と死は別物だと?」
「うん。だから、あたしが月白より先に死んじゃってもね、月白があたしを憶えてる限り、あたしは月白といられるんだよ。」
 囲炉裏の火が揺れる。火に掛けたヤカンには表から綺麗な雪を幾らか掴み取って入れてあって、十分に室内は暖かいのに私は自然と手足が震える。緊張していた。
 向かいに座った月白は私の告白めいた言葉を気にも留めていない。せっかく勇気を出したのにわたしあたしだけが意識しているみたいだ。
「死をも検討する程に嫌なその男との縁談を断って……例えば、他に嫁ぎたいほどに好いた男がいるのか。」
「んー……よくわかんない。」
 あなたが好きよ、なんて。直接的には言えない。けど、恋をするなら、あなたがいい。
 あたしは目で訴えかけるに留めた。けれど、次の瞬間その甘い空気は吹き飛ばされた。
「断っておくが――人の世で暮らすお前と私では、夫婦に成ろうなどと不可能だ。」
 月白は目を逸らし、一言だけ告げた。


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