パウダースノウ  参

 人の子は『綾音』と名乗った。慣れ合う気も無かった私は早々に小屋を追い出したが、翌日も、その翌日も娘はやってきた。余程の莫迦なのか、怖いもの知らずの子供なのか。
 この日も赤いひらひらとした着物を着ていた。見慣れぬ格子柄のそれは丈が短く、人の子ならば寒かろうに気にも留めていない様子で、勝手に上がり框に腰かけて奇妙な履物を脱いでいる。
「珍しい。ポックリを履くとは。」
「ポックリって何?これは、ロッキンホースバレリーナ。」
 聞いたことのない単語を並べられる。そういえば昨日も、外套を『コオト』と呼んでいた。黒髪に黄みがかった白肌ではあるが、もしかすると異人の血が入っているのかも知れない。
 そもそも、母が溶けてどれ程の時間が経っているのだろうか。季節は繰り返せど、自身がこれ以上肉体的に成長することも無ければ、山々の風景は一面が白に覆い隠されていて今一つ実感できない。星を見て季節を感じることはあれど、年月となれば数えることも無い。
 長い年月を経て、異人が里に住み着くことも想像に易く、文化がもたらされた可能性も有り得た。この娘に訊いてみれば答えは出るのだろうが、積極的に関わるつもりも無い。
 その昔、一羽の鳥を拾った。名前も知らないその鳥を眺めているうちに愛着が湧き、時にその鳥の傍で山々を眺め、終いには鳥が私の寝床を訪ねてくるようにさえなった。但し、幾らも経たないうちに鳥は死んだ。小屋の前に身を縮めたまま転がって身体は硬く、冷たく、生を終えていた。
 母がいなくなった時には何も感じなかったというのに、鳥が死んだときには妙に気持ちが沈み、落ち着かなくなった。
 もしも、この儘この娘――綾音と親しくなれば。私は善き友人では居られない。人ならざる者の死期など、人の生と較べれば無限にも等しく、私はただ、彼女が生を終えて旅立つのを見送る事しか出来ないのだ。
 更に、娘の立場にも成ってみれば、里の者たちに石を投げられるだろうバケモノと交流する意味等皆無と言えた。彼女から人里の事を窺い知る事は出来れど、私は何一つとして教えられる知識を持ち合わせてはいない。
「お前の言葉はよく解らん。」
「あたしだって、月白が古い言い方ばっかりするからわかんない時あるよ。」
 勝手に上がり込んだ上、部屋の一角に持参したらしい毛織物を敷いて腰を下ろしていた。大きな荷物を持っているとは思ったが、次々と目に痛い程の赤と黒が小屋の中に増えていく。
「ねぇ、このお花どうしたの?」
「母の形見だ。どうした?」
「ふぅん……これ、光るやつでしょ?」
「何?」
 娘が明け放したままだった戸を閉め切り、自身も炉端に腰を下ろすと、片隅の葛籠に置かれていた氷細工の華に手を伸ばした。
 氷細工だと思っていたのだが、冷たくも無ければ軽い力では砕けそうになかった。それに、茎の下部には小さな箱があり、妙な重さがあった。
「ほらこれ、電池ボックスだよ。」
「デンチぼっくす?」
 嗚呼、やはり人の子の言葉は解らない。私はその華を娘に渡し、少し離れたところから眺めるに徹した。
箱は何らかの細工があったようで、小さな板が外れた。中から何か、これも小さな金属の筒が出てきたが、何が起こっているのか、娘が何をしているのか私の知識では想像もつかない。
「電池切れみたいだね、明日持ってきてあげる。」
「……明日もまた来るつもりか。」
「うん。本当はここに住みたいくらいだけど、月白が嫌がりそうだったから。」
「当たり前だろう。人の子がみすみすバケモノの懐へ入り込む必要がない。」
「んー、月白がバケモノなら……パパとあのオッサンは、ゾンビかな?」
 なんとも、娘は悲しそうに笑う。若い娘や幼子の笑顔というのは、花が咲いた様であったり、見るものを喜ばせるのではなかったのか。痛々しい、という言葉がしっくりくる。
 私は、彼女を追い出すことを諦め、陽が沈むまでは其処に居る事を許した。
 いつかの鳥の時のように、この娘もすぐに死んでしまうのだろうが、もし、里の者たちと巧くいっていないのならば逃げてきても可笑しくはないと考えた。口振りからするに身内とすら、上手く遣れていないのであろう。
 言葉を話す鳥だと思えばいいのだ。暇潰しにはなるだろう。不都合があれば、いくら妖力の少ない私でもこんな娘位、殺める事は造作もない。
 翌日、宣言通りに綾音は『デンチ』というものを持ってやってきた。
「これで動くはずだよ。」
 華の根元に据えられたからくり箱に筒を入れて言う。ぱち、と微かな音の後、華は光り出した。
 仕組み等、私に解る筈が無い。ただ、これはきっと、母が私に残したものでは無く、私の父にあたる人の男が、母に捧げたのだろうと思う。薄桃色に光る華は、傍らで見ていた綾音の顔をも照らしている。
 指先を振り、灯り取りの窓を閉めた。昼間でも薄暗い部屋の中は、発光する華の色だけになる。
「優しい顔、するんだね。」
 私は、母を思っていた。記憶の中の母は凛とした人で、力に満ちた人だった。父の事は話さなかったし私も訊かずにいたが、母は訊いて欲しかったのだろうか。人という脆弱な者と愛し合い、私が生まれるまでの話を。父を恋しく想い、葛籠の中にあった恋物語の本のように、枕を濡らしたのだろうか。
「母は、父に想われていたのだろうな。」
「……きっとそうだよ。人間の男の人は、“大切な人に”花を贈るんだもん。」
 自ずと飛び出した言葉に同調するように、綾音が言う。彼女の言葉が本当なら、私の父は、母を愛していたのだろう。すとん、と痞えたものが落ちたように感じた。
「あたし、月白のお母さんが羨ましいな。」
 光る花弁を指で弄び乍、綾音は言う。
 許婚がいる事。相手は悪い噂の絶えない三十も歳の離れた権力者である事、父母がそれを良しとしている事。友と呼べる人が居ない事。
「誰かから、気持ちの篭った花を贈って貰った事なんてないや。あたし、ぼっちだから。」
 ボッチ、が何を指すのかは、考えずとも解る。彼女は、彼女なりに孤独なのだ。私のように人を避けて過ごして来たのでは無く、関わりたくとも関わる事無く生きている。いつか知った『見合い』という家柄だとか財産を比べ合い、相手を見つける行為よりも、より本能的に自身の夫婦となる相手を見出したいのが彼女の希望なのだろう。
「人の世も、苦労が多いのだな。」
 慰めにも為らぬ台詞を吐いたというのに、薄暗がりで膝を抱えた格好の綾音は少しだけ、嬉しそうに笑った。

 可愛いって少しくらい褒めてよ!と強く言われたのは、何度目の来訪だったか。
 その日綾音は、見慣れない長い襟のついた上着と、毬のように丸く裾が膨らんだ『スカアト』を履いていた。どうやら新調したもののようで、執拗にそれを見せびらかしてくる。
「ほら、このカーデもねー……ここにレース刺繍があるの!すごくない?」
 人の文化に明るくない私とて、刺繍は流石に解る。布に針で飾り糸を縫い付ける装飾だ。くるり、私の前で翻る真っ赤な羽織には大輪の花が咲いていた。白い飾り糸は、小屋の外にはらはらと積もり続ける雪の様。
「その刺繍は見事だな。」
 羽織りと揃いの帽子も赤で、黒髪に映える。薄暗い室内だというのにその赤は燃ゆる炎のようにちらちら、光輝いて見える。
 器用に編んだ髪を弄りながら、満足そうに微笑む綾音を見ていると、時折、釣られて笑みが浮かぶことがある。自身の事でなくとも彼女が笑う、それだけで私まで胸の内が温かく満たされていく、この感情の名前を私は知らない。
 赤と黒の綾音の色と、室内に灯る淡い薄桃色。雪の白と闇の色しか存在しない筈の私の住処には色が溢れ、日に日に賑やかに、鮮やかに変わっていく。決してそれを煩わしいとは思わない。綾音が訪ねて来る度に、小屋の中には赤と黒で満たされていく。南天の実を思い出させる紅を引いた唇も、黒い髪と眼も今ではすっかり見慣れた。
 言葉を話す鳥の様なものだ、と戯れに構い始めたのに、いつの間にか私自身が彼女の訪れを待ち侘びる様になった。

「そのポックリで雪道を歩くのは苦にならんのか。」
「ポックリじゃないもん、ロッキンホースバレリーナ!」

「綾音、囲炉裏に火を入れろ。寒いのだろう。」
「月白溶けちゃわない?」
「なら、点けるのを止めるか?」
「やだ。寒いもん。」

「ねぇ、月白はこのチェックのワンピとセーラー襟のやつ、どっちが好き?」
「どちらも。……綾音は赤い色が良く映えるな。」
「えっ、褒められた!でもどっちがいいのかわかんないよ!」
「赤い羽織りは雪の中で見つけやすい。どこにいても見つけられる。」
「探してくれるの?」
「……気が向いたら、な。」

 母とすら、こんなにも話すことは無かった。否、母と較べる事が間違っている。日毎に綾音がやって来る事をより一層心待ちにし始めたのだ。それが本の中の『恋』だと気が付くまでには随分な時間がかかった。自覚した今、それがどれだけ不道徳で、自然に反したことかと肝が冷えた。
 母もこんな気持ちだったのだろうか。床について目を伏せても瞼の裏に姿が浮かび、そこに姿が無くとも何度となく声が聞こえる。もっと彼女といたい。人の世が辛いというのなら、私とこの場所で生きればいい、等と有り得もしない未来を妄想する。
 何とも落ち着かず、気持ちが悪かった。どうにかこの感情を隠し通さなくてはならない。バケモノと人の道ならぬ恋等、現実にあってはならないことなのだ。
 雪が深くなり始め、いよいよ本格的な冬に成ろうと言う或る日、綾音は余りの天候の悪さに此処へ来る事が出来なかった。小屋の周囲だけならいざ知らず、山の周囲や里まで総ての天候を操作する妖力等、私は持ち合わせていない。
 里へ下りて様子を見ようとは思わなかった。だが、気に掛かって仕方が無かった。長靴ならいざ知らず、無理をしてまたあのポックリで此処を目指していたら――そう思うと気が気で無かった。
 途方もなく長く感じる夜が明けた朝、日差しが見えると何事も無かったように綾音は顔を出した。私はそれを、堪らなく愛おしく感じてしまったのだ。綾音の赤い着物が遠い木々の向こうから見えた時、私は小屋から離れ出迎えた。『恋』を自覚して尚、自身にこんな感情が有った等と初めて知った。


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