パウダースノウ  2

 何故、あたしは……こんなところにいるのだろうか。コートが濡れていて重いし、酷く寒かった。
 まず目に入ったのは、古い天井。今どき見かけないような、木目がはっきりわかる天井。次に自分の周りに何故か、たくさんの藁。
 何が起こっているのか確認したくて身体を起こしたかったのに、うまく力が入らず動けない。
「娘、動くな。凍えているのだろう。」
 頭上から降ってきた誰かの声。でも、聞き覚えはなく、冷たい印象を受けた。
顔だけを声のした方に動かしてみれば、男の人が座っていた。白と水色、というのが第一印象だった。白髪とも違うのだけど、透き通るように色素の薄い髪と肌。線の細い、今にも消えてしまいそうなシルエットに反して声は低く、女の人のような美しい顔立ちだった。
「あなた……誰……?」
 声が掠れる。冷気にやられたのか喉はひりつき、口を動かすたびに唇の端が切れた。リップクリームを塗りたい。鞄の中にはあるはずなんだけれど、今近くにカバンがあるのかもわからない。何より、この男の人は誰で、あたしは今どこにいるのだろう。
 途切れ途切れの記憶をたどる。
 あたしは綾音、十六になった。雪山の麓の小さな町で学生をやっていて、親とは仲違いしていて――そうだ、家を飛び出したんだ。
 ここまで独り言ち、それ以降は一瞬で思い出せた。
 お気に入りのロッキンシューズと姫袖のワンピースを着て、ドールコートとヘッドドレス、着替えの詰まったバッグを引き摺って雪山に入った。死んでもいいし、死ななければラッキー、森の手前にある山小屋に一晩避難しようと思っていたのだ。
 あたしは思い出せることを、ざっくりとかいつまんで話す。それから、名前も。
「娘。お前の言う山小屋とやらはこの山の反対側だ。里から登ってくる際に東西を間違えたな、阿呆めが。」
 アホ、じゃなくてアホウ、って言われた。しかもちゃんと名乗ったのに“娘”だって。酷い。それはさておき、あたしはどうも、山裾の入り口を入ってすぐの分かれ道を間違えて入り込み、まるで反対の方向へやってきたことが分かった。
 そうすると腑に落ちないのが彼の存在。この人は何者で、何故こんなところにいるのか。
「あなたは誰?……町の人とも違う肌や目をしてる。外国の人なの?」
 眉を顰めて、小さく息を飲んだ後、問いかけに返事はなかった。訊くな、と言いたいのかもしれない。
「温めてくれようとしたんだと思うけど、コートが濡れたままじゃ風邪ひいちゃう。申し訳ないんだけど……手を貸してくれる?」
 とにかく寒い。身体を起こしながら言うとまた、眉を顰める。が、今度はため息を一つついてから手を貸してくれた。
 膝まであるロングコートだから立ち上がる必要があった。支えて立たせてくれたけど、触れた手は酷く冷たくて氷のようだった。こんな雪山の奥にいるのだから無理もないけれど、その割に室内に火はないし、今どき着物だった。
「私が怖くないのか?」
 敷かれた布団の上にもう一度腰を下ろしたところで声をかけられた。
「どういう意味?ヘンタイ的な感じ?」
「――言っている意味がよく解らん。お前は山裾の里の者だろう、私に遭って怖くないのか、と訊いている。」
 だめだ、彼が何を言いたいのか全くわからない。
 それよりも気になることがある。彼の言葉遣い、着ているもの、全てが妙に古臭い事。五十年とか昔の、親どころかおじいちゃん・おばあちゃんの世代を感じさせた。
「怖くないよ。助けてくれたじゃない。」
 しかめっ面から一転きょとん、とした顔になってからまたため息一つ。
「ねぇ、あなたの名前は?お礼くらい言わせてよ。」
「名前等無い。」
 今度はあたしがきょとん、とする番だった。名前がない、というのはどういうことなんだろう。キオクソーシツとか?しばし考える。けれど、深く考える間も無く彼の口からは次の言葉が飛び出した。
「私はお前たちが言うところの、雪女の子だ。人の子のように名前等無い。」
 雪女。これはまたとんでもない台詞が飛び出てきた。
 おとぎ話の雪女なら知っている。雪の日に出会った子供を見逃して、その子供が大きくなってから結婚するけど、口止めしたのにぽろっと漏らしちゃって妻となった雪女に逃げられる……。絵本でほんの数回読んだきりだけど、たぶんこんな話だった。
 この人は童話作家とか、画家とか、ちょっと変わった人なんだろうか。それとも、ちょっと頭の弱い人か。この時代に雪女だなんて、芝居がかった言い回しも含めてちょっと面白い。
「じゃあ、名前考えなきゃね。呼びづらいもの。」
 名前は、自分が一生付き合っていくものだから(ペンネームとか、あだ名とかじゃないと選べないけど)大事なもの。だから、目の前の彼が名前などないというのなら一緒に考えてみるのもおもしろそうだと単純に思っただけ。
 もし、万が一……億が一?本当に雪女の子で名前がないのなら、これで名前を呼べるようになるし、名前を言いたくないだけだとしても仮称が付けばそれはそれでいい。
 呆れかえった彼をまた、観察する。雪のように白い肌と、青白い色の長いストレートの髪、薄い唇と切れ長の藤色の瞳。
「月白。決めた、月白って呼ぶわ。」
「何?」
「白い月、と書いて月白。青白い冬の月の色よ。あなたの雰囲気にとっても合うでしょ?」
 彼――月白は渋い顔をしつつも拒否はしなかった。
 時間をかけて聞きだしたことは、そう多くない。一人で暮らしていること、人のいる町には行かないこと、お母さんが死んじゃった?こと。それからずっと独りきりだということ。
「人の血は引いているかもしれんが、完全な人ではない以上、里へ下りることは憚られてな。だから娘、お前も私と関わろうとするな。」
「娘、じゃなくて綾音!ちゃんと名前があるんだから、綾音って呼んで!」
 何度も何度も『娘』という呼ばれ方をするのが気に入らない。自分の名前を強調してみるが、彼は素知らぬ顔で小屋の戸を開ける。雪は止んでいて、太陽も出てる。寒さも幾らか和らいでいた。
「朝だ。今なら人の脚でも里へならすぐだ。戻れ、そして、二度と来るな。」
「待ってよ、まだコートも乾いてないのに……」
「……外套か。貸せ。」
 月白はあたしのドールコートを持って大きく翻す。ばさっ、と大きな音をさせながらフリルのついたコートが揺れると、濡れていた部分は一気に乾いた。
「今の何?手品?」
「布が吸っていた雪の水分を取り払っただけだ。さぁ、もういいだろう。」
 しつこく私を追い出しにかかる彼が、何故か気にかかった。コートに袖を通しながら追いやられるまま小屋の外へ出ると、足元の雪がサクサクと音を立てた。
 ぴしゃり、と音がしそうな程勢いよく木製の引き戸が閉ざされた。あたしはしぶしぶ、帰らざるを得なかった。
 けれど、この位で挫ける訳がない。今日は取り敢えず家に帰るけれど、明日(今日?)もここへ逃げてこようと心に決めて、手近な木の枝を手折りながらその場を後にする。
 あたしは次の春、結婚することになっていた。形だけ、とは言われたけれど、三十も歳上のオッサンと結婚して、なるべく早く跡継ぎを作れなんて無理な相談。親が勝手に決めたことで、なんであたしが振り回されなきゃいけないのか、納得がいかない。
 繰り返し、まるで洗脳するみたいに『結婚は良いぞ』『子供を産むのは幸せ』ってしつこく言い含めてくるけど、今のところ、あたしの幸せは可愛い服を着ることと、自由に出歩くこと。結婚したら何一つ叶わなくなる。
『この町の為なんだ』とも言われたけど、いくら何でも、娘をイケニエに差し出すなんてありえない。
 ハンストや家出なんかと同じ些細な反抗の一環で、今日はたまたま迷子になったけど、あの場所は親にも見つからない筈だし、寒さだけ改善できればいい避難所になりそう。
 あたしは家族の誰とも口を利くことなく自室にこもり、明日の支度を始めた。

 翌日。雪がちらつくことも無く、思いのほか温かかったから、動きやすさを優先して今日はファーのポンチョを肩にかけて出かける。赤チェックのスカートが人の目を引いたけど、あたしは気にしない。
 他人の目ばかりを気にして、好きな服を着られない、好きな本を読めない、思ったことを口にできないなんてまっぴら。あたしは、あたしがやりたいようにする。
 昨日帰ってきた道をそのまま逆走して町外れに出ると、山への入り口へ突き進む。手折った枝と記憶を頼りに、あの変わり者のいる小屋を目指した。


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