パウダースノウ  壱

 人は今でも、雪女の話を知っているのだろうか。
 雪山で死にかけている親子のうち、息子の方を『まだ子供だから』と見逃し、誰にも言うなと口止めして無事帰してやった後、人間の姿になって人里へ現れ成長した息子と結婚する。仲睦まじく暮らしていくうち、ふとした拍子に雪女の事を漏らしてしまい、雪女は去っていく。伝わる地域によっては子を為していたりいなかったり。
 何故、こんな話をするのか、と聞かれれば答えは一つ。私が雪女だからだ。いや、正確に言えば人の男に近い形態ではあるのだが。
 飲食も、睡眠すらも必要とせず、この山で静かに暮らしていくなら何も困らない。脆弱な人と違い、私は熊をも従えることができた。人の形ではあったが人里にいる者たちよりも体は頑丈なようで母が驚いていた。
 母曰く雪女とは山の神の一柱なのだと言う。力を振るえば吹雪を呼び、総てを凍てつかせることすらでき、人と動物の生気を糧にこの地に根付いているのだと。
 幸か不幸か私の妖力は母と較べれば微々たるもので、力を振るうというのも今一つ苦手であり、人と変わらないのではないか錯覚を覚える。しかしながら、体温が無いことや肌や髪の色は明らかに人と違うバケモノであると示していた。
 先に話した雪女の話の中にあった、“子を為した”という節の通り、人の男との間に私が産まれたのだと母からは聞いた。母は父を忘れられず、何度も人の里へ行ったと聞くが、私はその記憶がない。幼子のうちに山へ戻った所為か、自分が人里にいたということも今となっては疑わしいが、詳しく聞いてみようにもその母もとうに溶けてしまい、私は独りだった。
 母は妖力を使い、変化して人里へ降りることもあった。それは自身の楽しみの為であったり、時には私以外の子を為したいという目論見もあったのかもしれない。それと、所謂『情報収集』というものか。本を持って帰ることもあれば、人の間で信じられている雪女の噂やこの雪山へ足を踏み入れる者達についての事等、幅広い知識を得て戻ることもあった。
 私自身は変化することはできない。その為母が溶けて以降、人里で何が起こっているのかを知る術も無く、無用の長物となった母の着物や書物は全て、葛籠の中に入れて隅に置かれたままだ。
母が遺したものは、父親についての話と人里で手に入れた着物と履物、氷細工の華が一つ。それと、襤褸屑のようになり字も霞んでしまった書物が幾つか。
 知識としての色々は遺してくれたものの、形に残るものはそれだけだった。
 だから私は、息をすることも忘れて見入ってしまったのだ。記憶にない、自分以外の者がそこにいたから。
 風の無い夜、私は気紛れに外へ出た。降り続いていた雪が止み、眼下には白が敷き詰められ草一つ、野鳥すらも姿は無い。
 凛とした無音の世界は嫌いではなかった。冷え切った空気と満天の星空の藍色が視界一杯に広がると、怪我などして居なくても胸が痛み溜息が出る。私に呼吸という物は不要だった。せずとも問題はないのに、身体の中が一杯になるまで冷えた空気を吸い込み、また吐き出すのだ。
 時折こうして、小屋の外へ出ることがある。念には念を入れ、月の無い夜にだけ、と定めてではあるが之までそうしてきた。人を恐れての事だ。
 里の人間などその気になれば怖くもなんともない。母程に妖力を使えずともこの身に宿る冷気を解放するだけで、雪女だと言い合い、恐れ、逃げていくだろう。鉄砲とやらを撃たれても、死ぬことはないし痛くもない。
 ふ、と目を細めてみる。小屋から少し離れた箇所で何か色を捉えたのだ。
 雪の白の中に、赤。
 最初は何か動物が獲物をしとめたのか、と思い気にも留めていなかった。戯れに、近寄ってみて驚く。また降り始めた白の中にいたのは人の子だった。
 長らく雪の中に倒れこんでいたのだろう、肌に生気はなく凍えていた。そのまま、放っておいても良かったのだが――何の弾みか、深い意味などなくその子を抱え上げ、小屋に連れて帰った。
 私にだって塒はある。母が遺した、というよりは元々そこにあったのだろう人が使っていた気配のする小屋だ。然して広くもないが、自身が寝起きするには十分で母が溶けてしまった後もずっとここにいる。
 生憎、火を起こすようなことはしないし、母のように妖術が使えるわけでもなかった私は、せめて、と片隅に積み上げられていた藁の綺麗な部分を選り出して娘の周りに積んでやり、体には母の着物をかけてやった。その傍に腰を下ろしてもう一度よく見てみる。
 肌は胡粉色、髪は漆黒。間違いなく人の子だ。特別な持ち物は何もなく、真っ赤な外套と黒い着物を着ていた。娘の着ている着物は母が着ていたようなものとは違っていた。手触りも、絹でも木綿とも違い、麻でもなかった。履物も、私の知らないもので踵の高いポックリ下駄のような形状をしている。
 自身を除き、母しか人型の者を知らない私にとって、この人の子は全く未知なる存在であった。身に着けているものの差異だけでなく、そもそも人里に降りることも無かった為に、言葉すら無縁の生活をしていたというのに深入りしてしまった。
 観察している間に娘は気が付いたようだ。化粧の施された瞼が揺れる。


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