空を歩く



「ボリビア、って超遠いのな。」
「ぼりびあ?どこそれ。」
 ざぶざぶと音を立てながら川の水を蹴り上げる幼馴染が言う。スカートが濡れるだとか、その中が見えてしまうかもしれない事はお構いなし。もう十数年の付き合いだ、言うだけ無駄なことは解っているし、何食わぬ顔をして目を伏せる。
「死ぬまでに一度は見てみたい絶景No.1らしいよ。」
「なに?タケシ死ぬの?」
「まさか。」
 縁起でもないことを言う彼女にちょっとだけ腹が立ってもう一度目を開けた。ですよねー、なんて大口を開けてカラカラと笑っていてすっかり毒気は抜かれてしまう。これも、いつものパターンだった。
 田舎の小さな町で育った僕とカナは、まるで兄妹のように育った。春は野に咲く花々を眺め、夏は虫を獲り、秋には山で木の実を集め冬には積もる雪を投げ合う。特色のない山間の町で僕らは常に一緒だった。小学校も中学校も、少し大きな町の高校に通うようになった今も、何故かつるんでいる。
 昨日学校で出された課題について悩んでいた僕はちょっと散歩のつもりで訪れた川べりで、待ち合わせたわけでもないのにカナと遭遇し、今に至る。
「いつか行ってみたいなぁ……」
「ふーん。」
 興味なさげにまた、爪先で水を弄ぶ様を眺めながら思う。
通年日焼けして浅黒い肌、ひまわり模様のワンピース、染めていないショートカット。いずれも高校の女子には見られない。話し方や仕草と相まって、カナは随分と年齢よりも幼く見える。時には本当に妹と勘違いされることすらあった。
 ただ、正直に言えば少しばかり僕は、都会の空気に疲れていた。つい数か月前までの身内だらけの中学が懐かしいとばかり考えていて、だからこそ子供のころからの遊び場へやってきたのだ。
「お前さぁ、昨日の課題、何書いた?」
「えっ。そんなのあったっけ。」
 駄目だコイツ。コイツに訊いた僕が間違いだった。
 課題は何のことは無い作文で『自己紹介を兼ねて、好きなものや将来の夢等を書いてきてください』という条件。勿論、ありふれたものを適当に書いて提出したっていいのだろうけど、そもそもその『適当』がピンと来なかった。
 机に向かうのにも疲れてベッドに入ってからネットで見つけた観光地の写真に妙に心惹かれ、そのまま様々なブログやネットコラムを読みあさる。朝方になって漸く思いついたのが『ボリビアに行ってみたい』だった。
「あのさ、ぼりびあ?じゃなきゃだめなの?それ。」
 水遊びにも飽きたのかカナはいつの間にか立ち上がっていた。木々の合間から入り込んだ日光が彼女の腿を照らし、サワサワと新緑が音を立てる。
「多分あたし、いいとこ知ってるよ!」

***

 せっかくの連休中だというのに朝も早くから自転車に乗ったカナに起こされて、僕らは延々国道沿いに走る。カナが先行しているが、行先は聞いていない。
 僕が何度も『いつものパターン』だとか、カナの仕草や態度で考えを当てられるように、もしかしたらカナも僕のことを僕以上に解っているのかもしれない。だとすれば、僕が少し精神的に疲れているのを見越して何か、ストレス発散になるようなことを思いついてくれたのだろう。上手く言葉にはできないけれど、後ろ姿に感謝の念を送っておく。
 途中のコンビニで小休憩を取り、カナは詳細な順路が書かれたメモを確認する。僕がトイレに行っている間にレジの人に貰ったらしい。
「なんかさー、青春してるって感じ?」
「……カナってほんとにバカだね。」
「あははは!もう三十分くらいだって。」
 他愛ない軽口を挟んで、また僕らは自転車にまたがった。
大切そうにショートパンツのポケットに仕舞いこんだメモを、僕は見てしまった。簡易の地図と順路以外に、携帯の電話番号も書き込まれていたことを。
 僕はずっと一緒にいたカナのことを、どこかで妹のように思っていたんだと思う。ずっと、一緒に居られると思いたかったのかもしれない。あか抜けない田舎の女の子だったはずのカナは、もしかしたら――もしかしなくても。僕から離れて行ってしまう日が来るのだろう。
 風を受けて揺れるショートカットを見ながらぼんやりと、そんなことを考えていたら。トンネルに入って一瞬視界を奪われ、よろける。一度ブレーキをかけてその場に止まった。
 考え事をしていた所為か、単なる明るさの変化に負けただけか自分でもわからない。僕は、もしかして。カナが好きだったんだろうか?いつから?どうして?
 暫く考え込んでいるうちにカナの後ろ姿は随分と遠くなってしまった。薄ぼんやりとした古いトンネルの明かりが、まるで僕の心の中のモヤモヤした何かみたいで居心地が悪い。
 考え込んでいても、答えは出なかった。ただ、カナを見失わないように歯を食いしばって思い切りペダルを踏んだ。
トンネルの終わりが近づいてくっきりと白と黒に分かれる場所で、カナは僕を待っていた。目を細め警戒しつつそのまま抜けると、潮風が顔を撫でる。白んでいた風景が徐々に戻ると、眼下には海があった。
 そこからは少しだけペースを落として、カナが仕舞いこんでいたメモを頼りに海へと近づいていく。自転車を留め、一般開放された砂浜をスルーして、彼女は岩場を進む。昨日のサンダルではなくて丈夫そうなスニーカーで来た理由はこれか、と腑に落ちた。僕も同じように苔の生えた岩に後を追う。
 大ぶりな岩を乗り越えた先にあったのは、まるでウユニ塩湖のような水面。僕が見たかった鏡のように反射するその光景は、遠くに見えるごみごみした看板や漁船さえなければ日本と言われても気が付かないかもしれない。
 言葉を失う僕に代わってカナが口を開いた。
「ぼりびあ、はわかんなかったけどさ。絶景No.1って言ったじゃん?あたし勉強は嫌いだけど、前にテレビで見たことあるんだよね、ウニ塩湖とかいうの。鏡みたいになってるんだよね?」
 うん、ウニじゃないんだけどね。そう言いたかったけれど、もっと大きな問題が発生して口をつぐむ。カナがTシャツの裾を持ち上げて今にも脱ごうとしていた。僕は慌てて顔を背けながら『何してんだ』と叫ぼうとした。が、ぱしゃんという水音にかき消された。
 薄目を開けてみると、カナはちゃっかり水着を着ていたらしく、上下とも服を脱ぎ捨てて乱雑に浜に置き去りにして水際に立っていた。
 やっぱり、僕はカナが好きだ。毎年夏になれば目にしていたはずの水着姿が、こんなに眩しい。この先、離れてしまうのかもしれないけれど、出来る事なら僕はカナと居たい。
 カナは大岩に棒立ちの僕にお構いなく波打ち際から歩を進める。遠浅なのか、彼女の足首ちょっとくらいしか水位は無く、彼女はすいすいと事も無さげに進んでいく。風も無いおかげで水面は静かだった。彼女が動きを止めればまた一枚の鏡のようになる。それはまるで――
「ほら!空を歩いてる!」
 羽が生えたように、彼女は軽やかに跳んだ。