恋という病



 雨の匂いが割と好きだ、と言ったら部内の友達には『変なの』と笑われた。他愛ない学生時代の一幕を不意に思い出したのは、きっと外が雨模様だから。
 市立図書館は小高い丘の上にあって、割と使い勝手は悪かった。学生時代から此処へ通っていたけれど未だに直らない学習室の扉の傷だとか、書架のペンキ剥がれだとか、レトロというほど品よくはないけれど時代を感じさせるとでも言うべきか…要するに、『古いけれどなんだか落ち着く』という理由で高校を卒業し、大学生になった今も折に触れて此処に通っています。
「ねぇ、貴女は知っていますか?恋という病気があるそうですよ。」
 僅かに聞き覚えのある声が投げられて驚きを隠せず、私は勢いよく顔を上げました。高校時代に同じ文芸部だった貴方が通路の先に立っていて、もう一度、文庫本に目を落としていた私に問いかけた。困惑するようなため息混じりに。
 私は手に持っていた本をそっと閉じて貴方を正面から見つめます。何時もと同じ夕刻の市立図書館は静かで、ただただ雨音だけが響いていてまるで、この空間だけが切り取られたみたい。
 一番静かな奥の書架の裏に設えられた申し訳程度の古いソファに腰かけて推理小説を読むのが私の楽しみで、普段他の人が座っているのを見かけないのを良いことに自分の中で定位置にしていました。ただ、何時も黒い服を着る私を指差して、絵本を読む子供たちが『魔女のおねーちゃん』という渾名をつけてくる位だから自分で思っている以上に目立っていたのかもしれません。
 けれど、まさか貴方が話しかけて来るとは思わなかった。制服を着て、学校帰りだろう時間帯に現れては黙々と私と同じように推理小説を読む貴方のことは気付いていました。少しさびしそうにも見えるつり気味の目を、少々長めの黒髪の向こうから覗かせていて、時折視線がぶつかる事もありました。
 けれど、学生時代にだって同じ部活動という以外に接点は無く、時折活動の一環としておすすめの本はないか、と情報交換の場にいてさえあまり積極的には発言していませんでしたから、何故唐突に話しかけられたのか考えあぐねていました。そして、彼の言葉の意味も。
「“魔女のおねーちゃん”が何時も、僕の読みたい本を先に読んでしまう。エラリィ・クィーン、アガサ・クリスティから江戸川乱歩、横溝正史。現代作家なら綾辻行人や乙一迄もぴったりと寸分の狂いも無く、僕が其の日読もうと思って来てみれば、必ず貴女の手の中に其の本は納まっている。まるで魔法みたいに。…流石は“魔女”ですね。」
 私が腰を下ろしていた壁際のソファのすぐ傍まで来て、貴方は立ち止まる。いつの間にか雨音は止み、雲間から顔を出した夕日が書架の隙間から差し込んで貴方を染め、色白の頬が、華奢な眼鏡のフレームが、仄かに金色に映ります。私は目を合わせていられなくて、手に持ったままの本に目をやりました。
 彼が今挙げた作家は何れも、私が好きな作家でした。学生時代から推理小説が好きで、文芸部に入ったのも私のまだ知らない新しい作家の発掘やミステリ・推理小説について考察したりできる友人が欲しかった為でもありました。残念ながら、所属した文芸部には割と恋愛小説好きやライトノベル派は存在しましたが、私と同ジャンルを好む人はいなかったのですが…
 私が回想している間に、彼はゆっくりと歩きだしました。細い壁際の通路には、彼と私を阻むものはありません。一歩ずつ距離を詰める貴方から逃げる術はありませんでした。
 貸し出し用のバーコードシールがついた、色褪せた本の表紙に影が落ちます。もう一度、顔をあげました。見下ろせるほどの距離にきて初めて、夕日の色だけでなく、貴方の頬が赤く染まっていることに気が付きました。リフレインする彼のセリフから、私は全てを察しました。図書館でよく会う理由も、ようやく。
 貴方はしゃがみこんで目線を合わせて。子供に言い聞かせるかのようにゆっくりと、どこか恥らうように言葉を紡ぎ出します。これはきっと、無口な彼なりの、愛の告白。
「魔女の貴女なら、僕の此の病を治してくれますか?」