インモラル



「お前と会うときって、いっつも雨だな。」
「あぁ…そうだね。」
 しとしと、しとしと。非常扉の小さなガラス窓の向こうには雨粒。
 乱れた制服を正しながらあいまいに笑う彼に、背を向けながら返事をしたのは恥ずかしいとかそんな事じゃない。自分の役目が終わったから、わきまえてる。それだけ。
 彼は、私とは違う世界の人。
 こうして月に何度か、彼に呼び出されてはこっそりと、駅前の寂れたビルの階段を上って最上段の踊り場で彼に足を開いた。今となっては何がきっかけだったのかも覚えていない。中学二年の夏が、たぶん最初。
 小学校は同じだったけれど家が近いだとか親同士が仲良しだとか、解りやすい接点は何もなくて、どうしてこうなったのかを問われれば自分でも首をかしげずにいられない。
 初めて肌を重ねた日の事は、霧がかかったように薄ぼんやりとしていてどうにもはっきりしない。けれど、耳元に降る掠れた甘い声を自分しか知らないということに酷く興奮した覚えはある。うっすらとにじむ汗、青臭いようなニオイ、自分の家と違う天井。
「もう帰んの?」
「うん。あたし、門限あるし。」
 立ち上がる私の後ろで彼は煙草をふかし始める。悪友に勧められたラッキーストライク。私はこの香りだけは、好きになれなかった。
「煙草の一本ぐらい付き合ってくれたっていいじゃん。持ってるっしょ?」
 さりげなく私の手をつかんで上目遣い。こうすれば私が断れないことを知っている。
 掴まれた右手首が熱い。
 私は再度その場に腰を下ろし、彼の手をやんわりと振りほどいて通学カバンの底からシガレットケースを取り出した。彼とは違う、セヴンスター。でも、ZIPPOだけは真似して持ち始めた。
 目の前に唐突に差し出される彼の吸いかけの煙草。まだ火のついてない私の煙草の先端にそれを重ねてから彼が一息吸うと、ゆっくりと火が移る。私もそっと吸い込んだ。
 シガーキス。ちょっと憧れてたのを彼は知っていたんだろうか。心臓が飛び出しそうだ。無事に火はついたのにちっとも味がわからない。
 本当は、キスさえしない関係のくせに。
 くゆる煙を目で追いかけて、どうにか心臓が落ち着いたころには彼の煙草はもう半分近く灰になっていた。鞄の中から携帯灰皿を取り出して彼に渡すと、ちょっとだけ笑って「おぅ」と返事が返ってくる。
「学校辞めるわ、俺。」
「まじ?なんでまた。うちらもう3年じゃん。」
「なんかたるいからさ、やる気ないのに時間の無駄じゃん?仕事も決めた。もうこっち戻らないつもり。」
「…うん。」
「なんか悪いな、って、今更だけど。多分これが最後だと思う。」
「会おうと思わない限り、ね。」
「あー…まぁ。な。ほら、アイツも連れて行くから。」
「…そっか。なら、お別れだ。」
「独りで、大丈夫なん?」
「や、何を今更。元々私は独りだよ?余裕っしょ。」
「ならいいけど…」
 彼が煙草を携帯灰皿に押し込んだ。私は顔をあげられない。すぐ隣で、視界の左隅で彼が立ち上がるのを確認しても、声一つ出せない。鞄を背負う音がするのに、こっちを見下ろしているのがわかるのに。
「――じゃあな。」
 今までで一番、優しい声だった。
 すぐ後ろを通って、そのまま階段を下りていく彼の足音が聞こえなくなるまで、煙草を咥えたまま膝を抱えていた。一人きりになって漸く煙草を投げ捨て、プリーツが崩れるのも気にせずにスカートを握りしめて泣いた。


 ずっと、ずっと、好きだった。
 小学三年生の時から、ずっと、見てた。
 そのころから彼は違う世界の人で、私とは付き合う仲間も、得意なことも全く違った。
 ずっと、その目に映りたかった。
 可愛くなろうとか、共通の趣味を持とうとか、一目置かれるようになろうとか、精いっぱい努力してやっと手に入れた居場所はあっさりと失われた。
 こんなこと誰にも言えなくて、二人だけの秘密を持ったような気がして嬉しかった。重い女にはなりたくなくて、ビッチな振りをした。
 『ヤラせてくれない彼女』の代わりでよかった。いつか終わりが来るのだとしても。
 心のどこかで覚悟はしてた。いつになく、私に触れる指が優しかったから。
 判り切っていたことけど、やっぱり悲しいし辛い。どんな怪我より、どんな努力より痛くて、辛い。
 でも、5年もかけて彼の心を動かすことはできなかったんだから、私の負けだ。


 携帯が鳴る。門限が近づいているアラーム。
 立ち上がり、スカートの埃をはたき涙をぬぐう。鞄の奥底に煙草と携帯灰皿を元通りに戻してふと気が付いた。スカートの裾に飛び散った彼の欲望の名残が、乾き始めていた。
 恥ずかしいとか誰かにばれるとか、そんな事よりも。まだ彼がそばにいる気がして、また、涙があふれた。
 彼はきっとそう遠くないうちに『ヤラせてくれなかった彼女』とその子供を連れてどこかへ行ってしまう。顔色や歯切れの悪さでそのくらい気が付く。私なんかよりもっと、現実的で大事なものがあるんだから、仕方がない。だけど、彼が抱いてくれたのは間違いじゃない。証拠が確かに残った。
 私が独りになることを心配してくれる人はもういない。だけど、私はもう少し、生きていける。
 微かに響いていた雨音はいつの間にか大きくなっていて、小さなガラス窓が明かり採りの意味をなさない程に暗くなっている。煙草の匂いをかき消すのにはもってこいだ、少し濡れて帰ればいい。
 ローファーで階段を駆け下りて、駐輪場まで走る。両親は厳しく、もはや虐待だろこれ?とツッコミたい事もあるような、あまり恵まれた家庭環境ではないけれどまだ彼が傍にいる気がしてもう少しだけ頑張ろうと思えた。
 両親含め、大半の人は私の原動力がなんだかわからないと思う。でも、誰に認められなくても彼が私を必要としていたそのことは私のエネルギーに代わる。
 例え救いのない道で、インモラルな関係であっても。