甘い毒。

効果 3


 彼が姿を消したクリスマスから年が明けて、次は節分だとかバレンタインデーだとか、2月のイベントの情報が入ってきている。
 今までの数少ない恋愛経験を振り返ってもこんなに辛かったのは…初恋の人と、諒だけ。時間がたてば傷は癒えるし、徐々に風化していくけど諒は現在進行形だから酷く胸が痛い。かれこれ2週間、私は女々しくも泣いてばかりだ。
 仕事に没頭して忘れてしまおうと努めたおかげで、復帰後の人間関係や進捗は上々。けれど、頭の中は酷く冷めきっていて、あれほど嬉しかったレビューやお客様の声も、可愛らしい色使いに頬が緩んだ商材も、何もかもが灰色で冷たく、重く、自分一人だけ冷凍倉庫にでもいるんじゃないかと錯覚することがある。
 スーパーやコンビニで彼に似た人を見かければ目が離せなくなるし、ひょっこり帰ってくるんじゃないかと玄関のドアチェーンは掛けられない。スマホをトイレにも風呂にも持ち込んで何度ものぞき込み、果ては彼の指定席に勝手に座ってみたり、奇行の数は数えきれない。
 煙草とコーヒー、栄養補助食品だけで過ごす日が増えてとうとう私は仕事中に倒れた。
 足元から崩れていく感覚は、いつかの夢と似ていた。椅子が壊れてそのまま、底なし沼に沈んでいくような錯覚がして書類束を持ったままその場に倒れこんだ。


「杉下さん、大丈夫?」
 意識が飛んでいたらしい。ぼおっとする視界に突然、神山さんの顔が飛び込んできた。一瞬、諒かと思って目を大きく見開いた。勿論、そんなはずもなく、外回り中に寄ってくれたという神山さんはいつも通りきちんとスーツを着こなしていた。
「―――すみません、ご迷惑をお掛けしました。すぐに作業に戻りま「いいから、寝てて。」
 最後まで言い切ることはできず、起き上がることも制止された。渋々起こしかけた上体をまた横たえる。
 状況がわからず、取り敢えずきょろきょろと視線だけを動かしてみれば見たことのある天井、壁。どうやら病院沙汰とまではいかず、倉庫内にある仮眠室へ寝かされているようだった。
「ちょっと根詰めすぎじゃないかな。冷静な杉下さんらしくないなぁ…」
 呆れ半分、心配半分、という曖昧な顔で神山さんは薄く笑いながら目で『何があった?』と訊いている。尋ねられてもまさか『恋患いです』なんて言えるはずもない。謝り倒すしかなかった。
「多分貧血だと思います。すみません、本当に。」
「別に怒ってるとかじゃなくて…また、バイトの子たちから変なこと言われたとか…そういうトラブルを心配してるんだ。プライベートの事なら、勿論無理に聞こうとは思ってないから安心してくれていいよ。」
「プライベート、といえば…まぁ、プライベートですかね。その…可愛がってた犬が、いなくなっちゃって。」
「ん?マンションで飼ってたの?初耳だな。」
「はい。その、つい最近飼い始めて。」
 『犬』と表現したものの、その実年下の男の子だなんて実に背徳的だ。一回り近く年下の男の子を飼っていた上、何度か彼の欲望も受け入れ、更には惚れ込んだ事自体が背徳的なんだけども。
 正直に言う訳にいかないけど、吐き出すと不思議と楽になった。愚痴ると楽になるとは知っていたけどこんなに効果があるとは思っていなかった。
 私が気負ってしまわないようにか神山さんは先週聞いた『弟が居ついて困った』話の続編を中心に家族のトラブルや思い出を聞かせてくれた。
「もう今日は発送まで終わってるし、あとはやっとくから帰りなよ。ワンちゃん、帰ってくるといいね。」
 顔色が落ち着いた頃、神山さんはそう言って私のバッグを差し出し、退社を促してきた。一つだけある窓からは既に星がちらつく藍色の空が見えていて、随分と寝かせてもらったらしいことに気が付きまた申し訳なさでいっぱいになる。
「ありがとうございます。じゃあ…お願いします。」
 私は軽く身繕いをしてから神山さんと一緒に仮眠室を後にする。途中の通路で別れ、自社スペースへ向かう背中に頭を下げた。
 敷地外に出たところで足が止まる。これからどうするべきか、と。
 帰れ、と言われても家にいたくはない。ジャストサイズに思えていた1LDKが今は広すぎてどこにいても寒々しいし、何を見ても、触れても、彼を思い出す自分の女々しさが嫌でいっそ引っ越しでもしたい気分だ。
 別にそこまでお金に困窮しているわけでもなく、その気になれば週末の間に引っ越しくらいできるのにしない理由は、やっぱり彼を待っているからに他ならない。でも、合鍵を置いていった以上、もう戻ってこないんだろうなぁとも思える。
 どこにいるのかわかれば、いっそ問い詰めることもできるのにそれすらできない。私が彼について知っていることは、容姿と食べ物の好み、ナニの大きさと声、自称二十歳、死んじゃった私と同じ名前のお姉さんがいる。それだけ。しかも、後半に至っては嘘かもしれない、というオチ付き。これじゃ探すこともできない。
 今日もネットカフェに泊まることにして歩き出す。幸いにも明日は休みだし、昼間の明るい時間に帰ってから風呂と着替えをすればいい。
 すっかり寂れた部屋の死んだように冷たい空気の中、話しかける相手もいないし、些細な呟きにツッコミやレスポンスも返ってこない。一人で電気をつけて一人で何かを口から流し込んで煙草を吸い、風呂に入って寝るなんて、想像しただけでぞっとする。
 先日行って気に入ったネットカフェに辿り着き、同じようにブースを借りてドリンクを持ち込む。先日読みつくしたせいで興味を引く雑誌はこれと言って無かった。仕方なくPCでYoutubeでも観ようかとヘッドフォンをセットして話題の動画を手当たり次第に流し見してみる。
 とあるYoutuberが炎上していた。というのも、どうやら『不正アクセス』を行った、ということらしい。掲示板やブログのパスワードを暴く手法を面白おかしく動画にしてしまい、視聴者から通報され動画を削除したものの、別サイトにアップロードされたり拡散されたりと悲惨なことになっていた。
 古い言い方をすれば、所謂『祭り』というやつか。2ちゃんねる全盛のころにはこうした祭りが多発して、名前も住所も勤務先も何もかも晒上げられて追い込まれた人が多くいた。なんでそんなことまでわかるの?と不思議になるような情報や卒業アルバムまで晒されていて当時は顔出しはちょっとした恐怖だった。今は容赦なく顔を出している分、特定する為のヒントが多いのかもしれない。
 あまりの叩かれっぷりに野次馬根性が沸いてそのまま動画を垂れ流し、味の薄いコーンポタージュをすする。
 その動画を観終えた時、私の脳裏には一つの仮説が浮かんだ。慌てて私は備え付けの古いキーボードで検索ワードを叩き込む。
 仕事の時以上の集中力で画面をにらみつけ私は目的のものを探す。文字通り目を皿にして、思いつく検索キーワードで何度も調べてみて――思い通りのものが見つかった私は立ち上がり、そのページをプリントアウトしてもらうために受付カウンターへ声を掛けに向かう。
 必要な個所の印刷だけして私はすぐさまネットカフェを後にした。駅まで全力で走る。彼と出かけた時にもこうやって重たいエンジニアブーツで走り出したことがあったけど、あの時は『逃避』。今は、『前進』とでもいうべきか。スチールキャップの重みが憎い。すぐに家に戻りたい。
 
 電車が自宅の最寄り駅に着くとホームの階段を駆け下りて家までの道を急ぐ。いつもはダラダラと歩き、マンションの前でため息をついていた。帰りたくない気持ちでいっぱいで、エレベーターのないマンションを選んだことを悔やんでいたのに。
 家についてすぐ、服を脱ぎながら風呂に向かう。髪も洗って、今日はドライヤーも使う。とにかく時間がない。下着を身に着け髪を乾かしながら何度もスマホの時計をチェックした。
 この間注文した真新しい服が届いてから部屋の隅に封も開けずに積まれているのを、乱雑に開けて値札を切って…この一つ一つの作業が煩わしかった。一分一秒を急くこの気持ちは、何があっても止められる気がしない。
 着替えを終えて煙草に火をつける。時間は十分に間に合いそうだ。
 少し迷ってから私はメイクを始めた。自分から進んでメイクをするなんて初めてかもしれない。でも、今日はしなきゃいけない気がした。
 普段は使わないヘアアイロンも引っ張り出して温めておき、その間に化粧水、BBクリーム、パウダーを重ねていく。仕事で渋々するメイクより、無意識に入念にチェックしていることには自分では気が付かない。マスカラはサッと塗って長さ出し、チークとリップで仕上げてアイロンで髪もセットしたら、最後に香水も吹きつける。
 コートとバッグを持って玄関まで行ったときに初めて、しっくりくる靴が無い事に気が付いた。やむを得ずいつものエンジニアブーツを履いてコートをチェンジ。足早に家を出た。
 駅前でタクシーを捕まえ、目的地を告げると車はすぐに動き出した。いつもよりキツめに振った香水の所為か昔好きだった人を思い出した。
 まだ10代の頃、諒と同じくらい好きになった人がいた。寝ても覚めても彼の事ばかりで、少しでも彼の好みに近付こうと努力したり、理不尽な要求にこたえ続けた結果『都合のいい女』になってしまい、彼の一番にはなれなかった。彼に教わった香水がいつまでも手元に残り、それを見るたびに悲しくて苦しくて仕方がなかった。ただ、煙草の匂いを誤魔化すためにも香水は便利で、学校帰りに寄り道した雑貨屋のワゴンセールでGUIPURE SILKブルームーンのボトルに一目惚れして、なけなしの小銭を溜めて買った。
 ガラスの向こうを流れていく街の様々な光をぼんやりと目で追いながら思い出に浸っていると、目的地が見えてきた。ドライバーに声をかけて向かいのコンビニで下してもらい、私はその場でセヴンスターに火をつける。
 いざ、勝負の時間だ。
 私はもう、覚悟を決めたんだ。


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