有害の天使

 ああ、なんて美しいんだろう、と思う。とうとう頭がイカれたらしい。
 白一色のロリィタワンピースを着て、ホームセンターの値札もそのままに手斧を振り回す彼女の笑顔は、平たく、有体に言えば天使の様だ。例え標的の吐瀉物やら返り血やらに塗れても尚、愛くるしい。
 頭の中身を振りまいて絶命した同い年の女子高生をピカピカしたエナメルの厚底靴で踏んづけて斧を引き抜くと、レースたっぷりのバッスルスカートを翻してくるり、振り返る。
「別に、いいよね?どうせ明日にはみんな死んじゃうんだもん。」
 
 平成も終わろうという夏、この世が終わるのだという。今年に入ってからというもの、世界各地で『アポカリプティック・サウンド』と呼ばれるおかしな音を聴いたり、空の色、暖かなはずの地域でオーロラが観測されたりと異常気象のオンパレードだったのは子供でも知っている。続く地震、突発的な雷雨、日常が壊れていくのを目の当たりにして半年、危惧された人々の暴走――殺人だとか、レイプだとか――は少なくとも、日本国内では大きな事件は起こらずに今日に至る。そのはずだった。
 教室の窓の外にはまだ昼前だというのに赤紫色の空と、見るからに危険なソレ。嫌でも思い出すのはブルース・ウィリスの『アルマゲドン』だ。肉眼で見る限り、思う以上に小さい彗星はまだほんの序の口で、同じような、もしかしたらそれ以上のサイズが明日までに嫌というほど降り注ぐらしい。多分今僕が見ているあの彗星ですら、小さいと思いつつも落ちたら街の一つは簡単に滅ぼしてしまえるんだと思う。
「ねぇ。君は何でこんな日までガッコ来てるの?」
 返り血に染まった天使は僕に問いかける。人形のように整った顔で、こてん、と小首をかしげるその様が余計に作り物のようだ。
 今僕が学校にいる理由?そんなの、決まってる。
「君と、同じようなものだと思うよ。……殺したい人がいるんだ。」
「ふぅん。相手の家に行くんじゃなくて、ガッコに来るだなんて、待ち合わせでもしてたの?」
「いや……きっと、来るだろうと思ってたんだ。」
 僕が会いたかった相手は、すぐ近くにいる。目を伏せれば出会った時の事からつい昨日のことまで総てを思い出せるほど、僕の心の中に住み着いている、あの悪魔。きっと向こうは僕の事など目にも留めていないだろうけれど、僕はずっと憎んでいた。どこかでその面影を見出すたびに苦しんだ胸が、今また張り裂けそうに痛む。今日で、それも終わるのだと思うけど。
 ぽつぽつと校舎の内外に居た生徒たちが集まって遠巻きに僕たちを見物しだした。三人ばかり殺したロリィタ女と、見るからに地味で目立たない、棒立ちの僕。その他たまたま近くにいた女子生徒が一人と男子生徒が二人。人物の関係性が解らずに困惑しているのが肌で感じ取れる。勿論それ以上に、彼女がまだ手斧を手放していないことも不安を煽っているのは間違いない。
 僕は服の中に隠していた得物を取り出す。得物、なんて大層に言っても、たかだか高校生の身分で手に入るものは知れている。少しだけ大ぶりのカッターナイフだ。それでも、標的の喉の掻き切るくらいの事は出来る筈。ギャラリーが沸いたことでどうにか隙ができないか伺ってはみるものの、寧ろ長引けば長引く程この場を打開する方法も見つからなくなるだろうことは明白だ。
「あっ、おい!」
 ギャラリーの中から何人か、モロに死体を見て吐いたり倒れたりした奴が出たらしい。遠巻きだった輪が散り散りになり、崩れ始めた。
 今だ、今しかない。僕はカッターナイフの刃を一気に引き出して全速力で標的にぶつかりに行く。押し倒して、そのままその細い首を――

 結果から言うと、彼女のヘッドドレスのリボンとチョーカーに邪魔されて、薄っぺらなカッターの刃は彼女の肌に傷一つつけることができなかった。
「愛してる……君を愛してるんだ……」
 体当たり、彼女が手斧を放り出して倒れたところまでは良かった。馬乗りになるところまでは予定の通りだったのに、彼女の勝負服は今日という晴れ舞台を彩る為のものだけでなく、防御の面でも有能だった。
 フリルとレースで彩られた柔らかそうな見た目とは違い、彼女の細いウエストを更に締め付けるコルセットはゴツゴツと固く、幾重にも重なった布地はこんなチャチなカッターでは切り裂けない。馬乗りのままうわ言の様に愛を語る僕を、彼女は無表情のまま眺めていた。
 ずっと前から好きだった。ピンク色のランドセルを背負った君もテストで名前を書き忘れた君も万引きをする君も真新しいセーラー服の君も夏休みの図書館で本を読む君もこっそりカンニングをする君も隠れて煙草を吸う君も高校の入学式に貧血で倒れた君も気に入らない女子生徒にこっそりと嫌がらせをする君も他校の生徒にケンカを吹っ掛ける君もヴィジュアル系バンドの追っかけをする君もロリィタファッションの君も全部全部僕の事なんか見えていなくても虫けら同然の目を向けられても蔑まれても恐喝されても殴られても蹴られても罵られても愛してるんだ。
「……だから?」
 甘ったるい彼女の声がする。涙で視界はぼやけて彼女のドレスの刺繍も、大きな瞳も、丁寧に巻かれた髪もよく見えない。
 世界が終わるなら、たった一瞬でもいい、彼女を自分だけの物にしたかった。けれど、僕の計画は失敗に終わったのだ。それならば、いっそ。
「……僕の事を、憶えていてください。別に、いいよね?どうせ明日にはみんな死ぬんだから。それくらい。」
 彼女の言葉をなぞって、彼女にまたがったまま僕は、彼女の髪の一筋すら傷つけられなかったカッターを、自分の喉に思い切り突き立てた。せめて、彼女の記憶のどこかに僕の事が残りますように、とだけ願いながら。
 最期に捉えた彼女の姿は僕の血を浴びてきょとんとしていた。やっぱり彼女は天使のようだと、意識が途切れる寸前であってもそう思う。決して純粋とは言えない、人並み以上に汚れているのに美しい。嗚呼、まるで彼女は、有害の天使。


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