僕だけのアリス



「現代のアリスはニセモノなんだよ。知ってた?」
 ハードカバーの大きな本を閉じてアリサは言った。小学校の図書室にあった『世界の童話』に似てる表紙は、分厚くてしっかりした紙を布でコーティングしてあって、金の箔押し文字が入ってるけど、最早薄れている。
「ルイス・キャロルが一番最初に創った不思議の国のアリスはね、ブルネットの髪に葡萄酒の色をしたワンピースだったのよ。ボーダー柄のニーソックスなんか履いてないし、エプロンもしてなかった。」
「・・・そうなんだ。知らなかったよ。」
 それ以外になんと答えればよかった?不思議の国のアリスなんてあらすじしか知らない。アリサと居るようになってやっと、先日文庫本を買ったんだ。

 たまたま見つけた森の廃墟で出会ったアリサは、僕が自殺しにきたのを知ってか知らずか、怯えるでもなく淡々とした口調で「チェシャ猫に似てるね。」と呟いた。今ならとんでもない電波系だ!と一目散に逃げ出すだろう。でも、当時の僕は返事をしてしまった。
「チェシャ猫って何?どこが似てるの?」
「不思議の国のアリスに出てくる不思議なネコ。貴方と同じ模様なの。」
 成る程、僕の着ていた冬物のニットが幅広のボーダーだったからそう思ったんだな、と。その日、自殺を諦めて自宅に戻りインターネットで調べて理解した。
 アリサは次の日も廃墟に居て、僕はすっかり自殺のタイミングを逃してしまった。
 そりゃ、別の場所とか深夜ならいいのかもしれないけど、地味に日当たりがよくて温かいこの場所で朽ちてやる!と決めてたもんだからすっかり台無しにされてガクリ、ときて。死にたいとまで思いつめて悩んでいたことが下らなく思えて、自殺を思い直した。
 何より、アリサはどこか抜けてる感が否めないけど、物腰は柔らかくて、僕よりも賢そうで、なのに年下に見えた。そんなアリサをもっと知りたかった。

 待ち合わせてる訳でもないのにいつも僕たちは出会って他愛ない話をした。互いの深いところは話さなかった。だからアリサが、どうしていつも朝から晩まで此処にいるのかなんて解らないし、何に悩んでいるかなんて知らないし、家族構成や友人関係なんて不明のまま。
 壊れかけた椅子にキルトを掛けて座り、一番陽のあたる割れたガラス窓の傍で本を読むアリサと、ジーンズだから、とお構い無しに胡坐をかく僕。いつからだろう、それが当たり前で僕はいつかこの関係が壊れるのが怖くなった。このまま何も変わらず日々が過ぎればいいのに、と思うようになった。
 世間から見れば僕たちはまだまだ子供で、きっとこんなところで遊ぶなだとかありふれた言葉をかけてくるだろうから、誰かに僕たちのことを理解してもらおうとは思わなかった。きっと、僕がイジメで悩んでいるだとか、そんな事を伝えたところで何も変わらないのと同じで、『タテマエ』でちょっとだけ動くんだ。それで『さぁ、整えてやった、ありがたく思え!』なんて言ってくるにきまってる。この十数年間がそうだったように、この世界はとっても厳しい。
 どんどん寒くなるある日、僕はなぜだか胸を締め付けられる思いをした。多分、大雨を挟んで久しぶりに会ったアリサが大人びて見えたからだ。
 いつもと変わらない赤いワンピースと、トランプ模様の手提げかばん。黒い髪が、ぐっしょりと濡れていた。顔に張り付いた一房の髪を払うでもなく、ぽたぽたとスカートの裾から雨水を滴らせながらガラス窓の傍に無表情で立ち尽くしていた。
「チェシャ、ごきげんよう!」
 僕の姿が見えるとアリサはにこり、笑って見せた。とても、悲しそうに。
 雨のせいでとても寒い日だったのに、上着も着ずに、ずっと立っていたアリサは冷え切っていた。彼女に僕のコートを着せて、キルトのかかった椅子に座らせる。ポケットに入れっぱなしだったカイロも渡した。
 火が使えればいいのだけど、父を思い出すから僕はタバコも吸わないし、ライターやマッチは持っていなかった。
 まるで役立たずの僕を詰ることもなく、アリサは『あったかいね。』と上機嫌で、僕の方がなぜだか泣けてきて、アリサはそっと僕を抱きしめてくれた。

「私ね、アリスも好きだけど、チェシャ猫の方がもっと好き。チェシャはもっと、もっと好きよ。」
 アリサは僕のことを、親しみを込めてチェシャと呼んだ。誰よりも大切だとも。
 アリサはそう言ってくれるけど、いつかこの陽だまりとか廃墟で過ごす時間とか、僕の知らない不思議の国のアリスの話をする笑顔が消えてしまいそうで、怖かった。
 僕のことを心底思ってくれる人なんて、この世には存在しないんだと思ってる。産んだはずの母はとっくの昔にどこかへ消えたし、守ってくれるはずの父は母によく似た僕の顔を見ようともしないで、酒に酔っては僕を殴る。部屋の中にはパソコンもゲームもあるけど、ぬくもりだとか思い出だとかはない。
 期待させるだけさせておいて、途中で投げ出すのならもう、最初から関わって欲しくないし優しくなんかされたくなかった。
 きっとアリサも、僕に話さないだけで家に帰りたがらない事情があるんだろう、というのは何となく察していた。日が暮れて廃墟の中に光がなくなって、真っ暗になっても帰ろうとするそぶりは見せなかったし、僕が帰ろうとすると引き留めたそうな顔をするくせに『またね』と言って手を振る。
 彼女を残して一人で帰るのはいつも、寂しかった。日が暮れるのが早くなってきて、そのさみしさは一層僕の頭の中を埋め尽くすようになる。
「アリサ。二人でウサギ穴を探しに行かない?」
 僕は、買った不思議の国のアリスの文庫本を半分ほど読み進めた頃、アリサに声を掛けた。窓の外をぼーっと眺めていたアリサの顔がぱっと明るくなって、僕も嬉しくなった。
 二人で手を繋いで森の中を歩きまわる。誰も掃除なんてしないから、建物の傍を離れるとあっという間に枯葉や小枝でいっぱいの森の中。僕のスニーカーと彼女のピカピカした靴がそれらを踏みしめるたびにぱきぱき、と音をさせる。
 建物の裏手に回る。裏は傾斜があって丘のようになっている。ちょうど、山の裾野に廃墟があって、塀だったブロックやレンガが所々に重なってるから、たぶん此処ももともとは人がちゃんと手入れをしていたに違いない。
 木々の根に紛れて、僕たちがすっぽり入るくらいの大きい穴を見つけた。
「これなんか、本当に白ウサギが入っていきそうじゃない?」
 僕が指さした先には大きな木があって、その根元にはぽっかりと真っ暗な穴があった。その真っ暗な深い穴を覗き込んだアリサの背中を、押した。小柄なアリサは穴の中にすっぽりと納まって、悲鳴一つ上げずに姿が消えた。
 其の上から小石や土、枯葉を沢山落とした。アリサを埋葬するために。
 タイミングよく穴が見つかったのは、僕が大雨の翌日、土が柔らかいタイミングで穴を掘ったから。山の中へと進むように斜めに掘った穴は僕でも出るのに苦労した。崩れてしまえばそれまで、というつもりで掘ったにもかかわらず、今日までぽっかりと口を開けていたのは幸運だった。
 僕はアリサの秘密を知っていた。知ったのはつい先日だけど。
 同じ学校の生徒で、妙に大人びた雰囲気の彼女は赤いワンピースが似合う女の子で、学校へは殆ど来ない。父親に、性的虐待を受けて、心が壊れてしまったのだと、大人が噂しているのを耳に挟んだ。
 雨の日に立ち尽くしていた彼女は、出血していた。だから僕は、その噂話が本当のことだと納得できたし、そんな場所に戻らなくてもいいように、彼女の居場所を作った。
 僕はまだまだ子供で、こうすることしかできなかった。僕がもしも大人なら、彼女をさらって、どこか遠い町で二人で暮らすこともできたのかもしれない。でも、僕にそんな『ケイザイリョク』も『カイショウ』もない。こんな子供を雇ってくれる会社はないし、すぐに大人につかまって引き離されてしまう。
 誰かに彼女のことを伝えて、助けを乞うたところで、結局は何も変わらない。子供の言うことだから、と信じてもらえない可能性すらある。だから僕はこうすることを選んだ。
 僕はウサギ穴の上に根を張る大きな木に登り、一番太い枝にロープを掛けた。首に輪を通して枝を蹴り、ダイブした。
 これで、僕はもう寂しくない。僕だけのアリスを捕まえた。
 これでアリサも、辛くも痛くもない。



 廃墟を取り壊して森を削る工事のためにやってきた業者が、赤いワンピースの少女とボーダーニットの少年、小学生二人の死体を見つけて世間を騒がせるのは、また別の話。