声帯を震わす激しい感情

 ―――ギターが鳴いた。



 彼のギターは真っ赤なGrassroots、FOREST。安物だと恥ずかしそうに笑っていたけれど、彼にはとても似合っていた。
 楽器の事などピアノさえかじったこともなければ、学校の音楽の成績さえ褒められたものでは無い私にはよくわからない。と、いうよりも、楽器云々以前の問題で大きな声を出すこともリズムに合わせて手をたたくことさえ苦手なほどに、私は音楽というものが不得手であった。
 彼はそんな私の前で自慢の真っ赤なギターをかき鳴らす。きらきら星、カエルの歌、メリーさんの羊…童謡に始まり、有名バンドのコピー、今では自分で作曲する事さえある。
 そのギターを手に入れた日、幼馴染の私の部屋に両腕で大切に掲げ持ってやってきた満面の笑みと上気した頬を私は忘れられない。中学2年の夏、ゲーム機も漫画も売り払い、コツコツ溜めた小遣いで買ったのだと大きな黒いソフトケースを見せつけて来た。
 ラグの上に横たえたケースをそっと開く。安っぽいケースのジップを引いてあふれ出した艶やかな赤に、私は息をのむ。木目の浮いた赤と、糸のように細い輝く6本の弦に目を奪われる。
 その日以降、彼は友達の誘いも断り、私の部屋にも滅多と来なくなった。何をしてるのかと尋ねてみたら、ずっとギターを弄繰り回しているらしい。
「俺さ、めっちゃ好きなバンドがあって。全然メジャーじゃなくて、テレビとかにも出てないんだけどさ。マジでかっこいいんだ!」
「いつか俺もあの曲を弾いてみたい。できるなら、俺も自分で何か作ってみたいんだ。」
 高校生になって、軽音楽部に入ったらしい彼は毎日ギターケースを背負って学校へ行く。地味に重たいギターは隣に並んで歩く私との間にあって、ふとした拍子に何度もぶつけられた。邪魔だと文句をつけたこともある。その度に彼は私に怒鳴った。
 学校のイベントでステージに立つ彼を観たこともある。と、いうよりも、彼がギターを抱えている姿を間近で観たくて裏方作業や委員会を率先して引き受けた。白む程のライトが輝くステージで真っ赤なギターが、彼と踊っていた。
 いつかインターネットで調べた、ジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトン、ベースだけどシド・ヴィシャスのようにステージに立つ彼は楽器と一つになって見える。ギターの神、なんて大げさなものじゃないし技術だって本当はまだまだなんだと思う。それでも、ただ聞いているだけでドキドキする、音楽に興味なんてなかった私を揺さぶる音はきっとイロコイ沙汰じゃあない。

 私の知らない間に彼は、ストリートで演奏したりスタジオにこもったりして仲間を増やし、ライブハウスで演奏することも増えていたようだ。バンドを組んでライブをやって、どんどん私との距離は開いていった。
 いつだって会えたから、連絡先すら交換していなかったことに遅ればせながら気が付いて、少しだけ後悔する。まさかクラスメイトから、彼のバンドがデカデカと掲載された音楽情報誌を渡されるなんて思ってもみなかったから。
 久しぶりに訪ねた彼の部屋は、子供の頃とは全く違った。ゲームやプラモデルで散らかっていた部屋は音楽情報誌とギター、その他の機材が並んでいて、アニメのポスターの代わりに海外のロックバンドのポスターや楽譜が貼り付けられていた。
 クラスメイトから渡されたのと同じ雑誌が、無造作にテーブルに置いてあった。
「最近ライブばっかだったから、会うの久しぶりな気がするなー。」
「あぁ、これ…うん、なんか、大きい事務所に注目してもらえてて…」
「次のライブには、偉い人が来るんだって。その人のGOサインが出たら、晴れてメジャーの仲間入りできるんだ。」
「自主制作でCD出してたんだけど、渡すの忘れてたな。ごめん。ちょっと待って、手元にまだあるから…」
 連絡先を訊くことも忘れて、その日はさっさと家に帰った。彼に貰ったCDを、リビングのパソコンで聞いてみる。ソファでテレビを眺めていた母が私に誰の曲か、かっこいいね、等と問いかけてくるがうまく返事ができなかった。
 CDに同封されている歌詞カードに書かれたバンド名をインターネットで検索してみると、立派なホームページが見つかった。いくつかのサンプル音源やショートムービー、メンバーの名前やライブの予定にざっと目を通していく。
 それでもやっぱり、私にはよくわからないままだった。
 彼はその後真っ赤なギターを背負って都会へ行ってしまった。自由登校と重なる頃で、学校ですらほとんど会わなかった。
 卒業式の日、たくさんのクラスメイトに囲まれる彼を見つけたけど、私には何もできなかった。彼の音楽を理解してあげられない私が傍にいる理由が見つからなくて、心の中で応援するにとどめた。初めてギターを手に入れた日、一緒にギターケースから取り出したあの真っ赤なギターの思い出があればそれでいい。
 彼には手紙を書いた。応援している、頑張れ、とだけ。彼のご両親に預けたからいつかは彼のところに届くだろうと信じて。
 春が来て暫く、ふと街中で気づいた。ビルに張り付いた大型モニターから流れているのは彼のバンドの音楽だった。液晶の中でメンバーが並んだ時に気が付いた。彼はもう、あの真っ赤なギターを抱えてはいなかった。
 バンドイメージや実力に合わせてランクアップしただけの事だと、普通に考えれば納得がいくはずの事なのに、どうしても受け入れられなかった。彼がいつか言っていた。Grassrootsは初心者~中級者向けなんだ、と。メジャーデビューして、それを仕事にしている彼はすでにその域を超えたというだけのこと。それでも、胸のモヤモヤが消えてくれなくて、それ以上大型液晶を観ていられなかった。
 私は、彼の事を忘れようと思った。それなのに、目に焼き付いたあのギターの色が忘れさせてくれなかった。


 彼のメジャーデビューから一年が経った日に、彼の両親から手紙と一枚のチケットを受け取った。家からそう遠くないイベントホールで明日、ライブがあるらしい。手紙には、息子もきっと喜ぶから行ってやってくれ、と書かれている。
 私は未だに、瞼の裏に焼きついた真っ赤なギターを忘れられていない。未練がましいと思いつつも、母に相談した。母は二つ返事で会場まで連れて行ってくれると言った。
 この一年の間、何度も忘れてしまおうと思った。誰もが失恋だと思い込んで的外れな慰めをしてきたけど、それは違う。私は、彼の音楽を理解できないふがいない自分が嫌になっただけ。だから、彼が音楽の世界で成功して、望んだ道を進めるならそれは私にとっても喜ばしい事で、ただただ自分が嫌いになっただけ。
 当日、イベントホールでスタッフに案内された席はギターの目の前だった。薄暗いステージに置かれているのは、いつか大型液晶で観た時の丸みを帯びた白っぽいギターで、やっぱり少しだけショックを受けた。
 会場が沸く。メンバーがぞろぞろと出てきて持ち場に着く。彼も、流行りの服を着て現れた。あのGrassroots、FORESTを携えて。

 ―――ギターが鳴いた。
 
 気の所為なのかもしれない。スピーカーが近いから肌で感じたものを勘違いしているだけかもしれない。でも、確かにあの真っ赤なギターがかき鳴らす音が聴こえた気がした。私の頭はパニックだ。いつの間にか涙が溢れていて、慣れないメイクが溶ける。
 言葉になっていない何かが胸を突き破りそうに競り上がってくる。私はこの感情の名前を知らない。
 ただ、爆音を放っているだろうスピーカーの振動に合わせて、彼の名前を叫んだ。
 観客のボルテージも上がる3曲目あたりで、6弦が切れた。
 スローモーションになるステージ。キラキラ瞬く銀テープ。
 実際には時間なんて遅くなってなくて、私の感覚の問題なのだけど、その時確かに1秒が引き延ばされて彼と長く目が合った。
『久しぶりだな。こんなとこまで追っかけてきたの?』
『いつも一緒だったもんなー。』
『なぁ、俺、夢叶ったよ。お前にも聞こえるといいんだけどな。』
 私は小さく頷いた。この聴こえない耳にも、確かに彼の言葉とギターの音は届いたよ。ずっと、応援してたんだ。ずっとずっと、貴方の音楽を聴いてみたかった。私の夢も、叶ったよ。

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