甘い毒。  2

 テーブルを挟んで座る。向かいに座る彼はグレーのワッチキャップを被った黒髪の男の子で、恐らくは私より若い。羽織っているパーカーも細身のデニムも全体的に少し薄汚れていて、カジュアルに纏めてはいるものの少しばかり清潔感に欠けた。左耳にはピアスが1つ。あまり筋肉質でも無さそうな何処にでもいるタイプの男の子、といった印象だ。
 インターホンのモニタからはみ出していた手に持った何か――彼のバッグは合皮っぽい黒のボストンバッグで、今は彼の足下に無造作に置かれているが、中身は大して入って無いのかもしれない。くたり、と重力に逆らわずに崩れていた。
 彼は何をするでもなく、ニヤニヤ、とも違う心底楽しそうな笑顔を浮かべて頬杖をつき、こちらを見ている。
「で、現物は?」
 私は毒物を買ったのだ。その気になれば死ねると思って住所を公開したし、五万円という(それなりには)大金を支払ったのだ。肝心の現品がなくちゃ話にならない。
「……オレだけど?」
 事もなさ気に出てきた言葉に面食らった。どういう事なのか。落ち着こう、とテーブルの隅に寄せていた煙草の箱と灰皿に手を伸ばし、一本くわえたタイミングで、目の前で火がついた。彼がライターの火を差し出している。
「死にたいくらい色んな事どーでもいいなら、オレのこと住まわせてくれたってイイでしょ?」
 煙草に火はついたが、ニコチンが体を巡ってもまだ寝惚けているのかと錯覚する。何を言ってるんだろう、この男。
「……名前も何も知らない男を住まわせる程、警戒心無くは無いし。そりゃ死にたいとは思ったけど、誰かと暮らすなんて飛躍し過ぎじゃないの?」
「あっ、そっか。自己紹介まだだった。オレ、リョウっていうの。ごんべんに京都の京書くの。」
 そんな事はどうでもいい。名前も何も、とは言ったが本当に自己紹介されても困る。名前はわかったがそれ以外のことは全く掴めない。
「……あのさ、自己紹介はわかったけど。そもそも毒物じゃないじゃない。私は死にたいくらい落ち込んで、いつでも死ねるように毒物を買ったつもりなんだけど? 」
「ふーん……」
 吐き出した紫煙の向こう側で、す、と彼の目が細められる。支えの右手に口元が隠れるほどに俯き加減に右を向く。
「悪戯目的なら、もう楽しんだでしょ?そのお金は財布を落としたんだとでも思って忘れるから、出て行って。」
 短くなった煙草を灰皿にねじ込んで立ち上がる。廊下に続くドアを開けようと彼の側を通った一瞬の事だった。
 ぐるり、視界が回る。壁面でなく天井が視界に映り、ドン!と後頭部に衝撃。背中と腕にはラグの感触。
「殺されるのはイヤだし、人に優しくされるのもイヤ。不幸に酔いたいのに怖い。そんなに死にたいのに死ねないなら、もっと追い詰めてあげようか?」
 頭上から降る声、骨盤の上に僅かに重みを感じて、今自分が押し倒されたことに気が付いた。彼の屈託無い笑顔で視界がいっぱいなる。首にヒタリ、と冷たい手が触れる。力は入っていないけれど男の手だ。大きくて、筋張っていて、その気になれば首を絞める事もそう難しくはないのかも知れない。
「悲劇のヒロインごっこがしたいなら、ここでレイプされて、金目の物ぜーんぶ盗まれて、怪我の一つでもしとく?ハメられてる動画でも流出させとく?」
 言葉はとても暴力的なくせに、首に宛てた左手にはそれ以上力は込められない。その上何故か、右手は壊れ物を扱うようなやわやわとした手つきで床に散らばる私の髪を撫でている。
 抵抗しなきゃ、とは思っているのに身体は全く動かなかった。第三者から見ればこの状態で身動きできないのを見れば、もしかしたら私は酷く怯えているように映るのかもしれないが違う。非日常に興奮を覚え、感動していた。
「……ヤりたきゃヤれば?アラサーババアにそんな価値があると思えないけど。」
 彼は少し驚いたように目を見開いた。震え声でも無いし、顔色も変えずに淡々とこんなことを言われれば当たり前かもしれないけど。
「生きる事を心底楽しいと感じた事もないし、友達とか彼氏とか、そういう眩しい青春は過ごしてない。仕事は……やり甲斐があったし自分なりに頑張ったけど、それももう失くした。貯金だって大した事ないし、特技だとか自慢できるポイントも無い。見てくれも性格も、お世辞にも良いとは言えない私にさ、なんの価値があるの?もう、若さすら失くしかけてるのに。」
 例えば十代の生娘なら、どんなに見てくれや性格が悪くても若さだとか処女だとかに価値があるかもしれない。同じように、有り余る資産があればそれは立派に価値があるだろうし、家事や育児が完璧なら素敵なお母さんになれるだろう。
 でも、私には何も無い。もう何も残ってない。惨めで、情けなくて、枯れたはずの涙が溢れてくる。それを見られたくなくて脱力していた両手で顔を隠す。
「……煽っといて、警察駆けこむのやめてよ?許可はとったからね。」
 一拍の間を置いて、耳元で囁く声がした。
 首にかけられていた手は私の両手首を絡めとって頭上にまとめた。髪を撫でていた手はそのまま耳を、頬を、それから胸へと撫でる場所を変えていく。唇を塞がれて小難しい思考はどこかに溶けた。
 侵入してきた舌を拒む事もせずに、何年か振りの甘い痺れを味わうように無意識に迎え入れて自らもそれに応える。生き物のように絡みあう舌と同時進行で、男の指は前開きのパーカーと部屋着のTシャツを捲り上げて肌のラインを撫で上げる。ゾクゾクと何かが背中を走る。快感と、少しの恐怖と、期待の混じった何か。
 真っ昼間のリビング、よく知りもしない訳の分からない男に組み敷かれていて、どう考えても異常事態で逃げ出すべきシーンだと冷静なままならすぐに判断出来ただろうに、すっかり頭の中は男の愛撫で蕩けてしまって気持ち良いことを受け入れるがままになっていた。
 唇が離れ、男の顔を漸く間近に見た。明るい茶色の瞳が私の上気した顔を映していて、先程までの笑顔ではなくオスの顔していた。三十路が迫る女子力の欠片もない私にも興奮できるのか、となんだか少しだけおかしくなる。
 もう一度、今度は噛みつくように唇が重ねられて手の拘束は解かれた。唇を喰まれて、吸われて、舌が歯列をなぞる。
 部屋着のスウェットパンツが何処かに消えた。ショーツの上からそこを撫でられる。誰かに触れられること自体が久方振りで、忘れていた快感が蜜となって溢れだす。十分に解れたと判断したのか唇は離れて、脚を開かされる。クロッチ部分を摘んで強引にずらし、そこから彼自身が入り込んできた。ミチミチと秘肉が無理やり広げられる音が聞こえた気がする。彼のものが大きいのが、私の其処が誰かを受け入れる事を忘れてしまったのかは定かでは無い。
 先端が滑りこめば一息に貫かれ自然に腰が跳ねる。喉から細く、悲鳴に似た声が漏れだせば不快に感じたのか男は目を細めて、少し骨張った指で舌を摘むように口腔に指を入れグチャグチャに撫で回す。
 男の動きに合わせて徐々に下腹部が熱くなって、中で動く熱の塊と自分の体温が溶けて境目が判らなくなって。
 目の前が、白んだ。



 死んでもいいと思っていた。
 だから、別に此処でレイプされようが、殺されようが、残念だとか悲しいとかは思えど、死ぬ事が嫌だとは思わなかった。
 人生をかけて、なんて、のめり込めるものもない。無駄に永らえるよりは、ある日突然キレイサッパリ消えてしまう方がいいとすら思えた。
 確実に死ねる――例えば、サスペンスドラマで見るような、青酸カリだとか。そんな毒物が手に入れば、自分の人生はいつでも、自分で終わらせることが出来る気がしてた。
 頼みの綱の仕事も失くして、急に足元を崩されたみたいに立っていられなくなって。何を支えにすればいいのかわからなくなって。
 出来る事なら、もう眠りから醒めたくなかった。





 暑い。
 秋の室温とは思えないほど暑くて、寝苦しかった。頭上からは忍びこむ少しの冷気とカーテン越しの月光。夜中に目が覚めたのは間違いない。
 寝返りを打とうとした私の手が何かに触れる。壁でも毛布でも無くてそれは確かに熱くて、自分以外の『ヒト』の感触で。微睡みの中にいた意識が急浮上し重い瞼を開いた。
 寝室のベッド、同じ毛布に包まって向き合うようにして男の子が寝てる。一瞬ぎょっとしたものの、直ぐに思い出した。
 私は得体の知れない、この男に抱かれた。レイプの筈なのにそれは心地よくて、痛い事もなければ苦しい思いもしなかった。汗やその他の体液で肌もシーツもベタベタだけど、とにかく優しくされた気がする。絡み合いながらベッドへ縺れ込んでまた何度も上り詰めて、陽も落ちないうちに完全に意識を手放した。思い出すと気まずい。
 狭いシングルベッドに二人もいれば窮屈だし暑くもなる。なんとかさっさと抜け出したいところだけれど、困った事に私が壁際にいる上に男の腕は私の腰に回っている。抜け出すには一糸纏わぬ姿で男を跨がなければいけないだけでも問題なのに、身動ぎすれば男が起きるかも知れなくて。
 結局体勢を変えることすらせずに、もう一度眠りに落ちた。

 次に目が覚めた時には隣には体温だけが残っていて、差し込む陽射しが朝の色をしていた。
 眠りすぎて身体がだるく、背中が痛い。寝ぼけ眼のままタオルと新しい下着、ルームワンピースを手に廊下に出る。兎に角シャワーを浴びたかった。
 駅近だけがウリのさして広くもない賃貸マンションの1室らしく風呂場は狹い。洗濯機を置いて掃除道具をしまえば脱衣所はそれだけでいっぱいだし、浴室内だって狭い。浴槽は深さはあるけど体育座りでないと入れないし、洗い場だってソープ類を置けばやっぱり狭い。それでも、ユニットバスよりマシに思えて、そこだけは感謝していた。
 髪を洗い、身体を洗う。そのタイミングで気が付いた。私は、一切の『お手入れ』をしていなかった。まさか成り行きでそんな事になるとは思わなかったし、長袖長ズボンの言わば作業着の状態で生活して彼氏も長らく居なかった。VIOは勿論の事、手足や脇すら放ったらかしで事を終えた後にも関わらず強烈な罪悪感と自己嫌悪に襲われた。かと言って今更処理するのも何かが違う気がするし、ボディ用の剃刀やシェービングクリームをストックしていなかった。
 結局手入れはせずに下着とルームワンピースを身に着けて、そのままリビングへ。水分とニコチンを身体が欲しがっている。
 これまた狭過ぎるLDKは、無理矢理カウンターキッチン風に腰高の収納棚を配置して利便性は高めたものの、天板以外の収納部分は殆どが薄っすらと埃をかぶっている。
 ここ1、2年を振り返るとマトモに調理等する事は無かった。松原さんが妊娠して、酷い悪阻に悩まされて早退や遅出が増えるに従って必然的に私の仕事が増えていき残業する事も少なくなかった。勿論、その事で彼女を責める気など毛頭無い。妊娠出産の経験が無い私にとっては悪阻の苦しさの全てを理解できるとは思えなかったし、真っ青な顔でトイレまで往復して、それでも仕事をしようとする彼女をみて、これが『母』になるということか、とその強さに驚かされた。
 収納棚の背面を隠すように設置したダイニングテーブルは4人掛けの大きめの物だけど、複数人でこのテーブルを囲んだ記憶はない。買い置きの菓子類とスーパーのチラシや郵便物を放り込んだカゴが1つと、煙草にライター、灰皿だけが置いてある。
 指定席の椅子には稀にある来客や温度調整用に常にパーカーかカーディガンを置いていて、宅配便の受け取りやネットスーパーの配達時に重宝した。自炊しようにも、休日にまとめ買いするには手が足りないし、ネット注文できるのは引き篭もりがちな私にはメリットしか無かった。
 指定席に腰を下ろして煙草に火をつけた。少しばかりくらり、と目が眩む。世に言う『ヤニクラ』だ。濡れた髪を適当にガシガシとかき回しながらタオルで拭きつつ、浅くゆっくりと煙を深く吸い込んで細く吐き出す。愛するセブンスターはチリチリと少しずつその身を灰に変えてゆく。
 男の姿は無かった。わざわざ玄関の靴まで確認はしてないけど、狭いこの家に隠れるところも無いし手荷物も見当たらない。第一、普通に考えたら早急に立ち去るだろう。お金を手に入れて下半身もスッキリしたら、ここに留まる理由は無い筈。
「あ、起きてた?おはよー。」
 リビングの扉が開くと同時に背後から投げかけられた飄々とした声に、慌てて振り返る。
 男の手にはよく行く近所のコンビニチェーンのビニール袋、羽織っているのは昨日も着ていた私のグレーのパーカー。そもそも、さも自分がここの住人であるかのような態度でノコノコと戻ってくるとは何事か。突っ込みどころが多過ぎて一度には処理できない。
「シャワー借りたかったんだけど、オレの着替え無いし、パンツだけでもーってとりあえずコンビニ行ってきた。パーカー勝手に借りてごめんね、オレのは結構汚れてたからさー。」
「えっと、ちょっと、待った。」
「なに?朝メシならテキトーに買ってきたけど?」
 首を傾げながら勝手に向かいの椅子を引いて座り、私の目の前にコンビニ袋の中身を広げていく。菓子パンとおにぎりと、カップ味噌汁、ゼリー飲料、炭酸ジュース……ふと、手元の煙草がすっかり灰に変わっていることに気付いて慌てて灰皿に押し付ける。
「色々と言いたいことはあるんだけど、その、まず、ナチュラルにココの住人みたいな対応なのはどいうこと?」
「え?言ったじゃん。オレ、ココに住まわしてって。それよりほら、朝は和食?洋食?味噌汁いるならお湯沸かさなきゃだけど。」
「……いや、食欲無い。」
 一旦落ち着こう。立ち上がって私は似非キッチンカウンターの方に回りこむ。天板の隅には安物のコーヒーメーカーが設置してある。数少ない嗜好品の一つ珈琲をがぶ飲みしたくて買ったもので、コレだけは埃をかぶっていない。
 食器棚から黒いマグカップとガラスのストッカーに入った豆を取り出す。ペーパーフィルターを互い違いに折り、開いてセット。コーヒー豆を入れる。付属のガラスサーバーを軽くすすぎ序でにカップに4杯分の水をタンクに移して、本体のスイッチを入れる。
「コーヒー党なんだ?オレもラテなら飲みたいんだけどー。」
「……私、ブラックが基本だから。」
「うわっ、男らしー。煙草もそうだけどさ、なんかめっちゃカッコいいよね!」
 男らしい、と言われて傷付くほど私のメンタルはヤワじゃない。でも、無性に腹が立った。この男が私の何を知っているというのか。突然現れて、図々しく居座り、目の前でメロンパンにかじりつく得体の知れない野郎に。
「ねぇ。お金はもう返してくれとも言わないし昨日のことも別に警察にとか考えてない、自分の事を毒物扱いして届けに来たつもりなら『返品』するから出て行って。私には私の生活があるの得体のしれない男と暮らすつもりもそんな余裕もないの、出て行って!」
 早口に、語気を荒めて捲し立てる。が、当の本人は優雅にオレンジ色の炭酸ジュースを流しみ、食事を続けている。腹が立つ、腹が立つ。
 コーヒーメーカーが仕事をしてる。サーバーに真っ黒い淹れたてのコーヒーが溜まっていく。コポコポという音だけが室内に響いていて、どちらも口を開かない。
 たった数秒なのか何分も経っていたのか判らない。怒鳴り散らしたきり私は下を向いていた。スリッパを履いた自分の足とフローリングの木目を見つめながら、回らない頭をどうにか動かそうとしているのに完全にフリーズしていた。先に動いたのは男の方で、傾けていたペットボトルをテーブルに置いた。
「……そんなカリカリして疲れない?そりゃさ、仲良くない男が転がり込んできたら警戒はするだろうけど、ヤる事ヤった仲じゃん?しかもこっちは和やかに話そうと思って朝メシ調達してきたんだけど。それとも、本当にヤるだけヤッて金目の物かっぱらって縛って出て行きゃ心底満足した?違うっしょ?」
 私はうつむいたまま。ぐうの音も出ない。言われた通り、そうやって酷い事をされたとしてももしかしたら死にきれないのかも知れない。惰性で生きてきたのは間違いないけれど、痛いのも苦しいのもイヤで、怖い思いもしたくないし他人に嘲られるのもイヤ。自力で死ぬだけの勇気も持っていない。
「あの書き込み、なーんか自棄になってただけっぽかったんだよね。あ、そもそも、オレは荒らし目的で見てたんだけど……あのサイトのセキュリティあんまりにも簡単だったし、中覗いてみてさ、あー、このヒト疲れてんなーって思って。家出少年してたオレは、向こうの私鉄の駅の方にネカフェあるじゃん?あそこにいたんだけど、住所見たら近いしさ、ちょっと話してみたくなったわけ。」
 私が俯いている間に彼は話しながら私の傍に来ていた。座れとばかりに肩をやんわりと押して椅子に誘導し、保温状態のサーバーのスイッチを切って、マグカップに注いだコーヒーを私の前に置く。
「もうさ、目が死んでたわけよ。玄関で見た時。敵意むき出しにして暴力振るって元気になるならそれで良かったし、話し込んで慰めて居候できるなら尚良。昨日あんな事しといて変な言い方だけど、本当に怪我させたりとか殺したりとかするつもり無かったからね?」
 私はまた煙草に火をつけた。彼が向かいの椅子に再度、だらしなく座ってペットボトルを手にしたのが目に入る。
 一度トン、と煙草の先端を灰皿の縁で軽く叩いた。
「なんで、そんな気にかけたの。顔も知らない他人が死のうとどうでも良くない?」
「ああ。オレのねーちゃんが自殺未遂何回もしてて、ちょっと前に本当に死んじゃったんだよね。んで、たまたまなんだけど、名前が同じだったの。葉月サン。」
 8月生まれだから、葉月。安直な私の名前は長く誰かに呼ばれることがなくて冗談抜きに自分でも時々忘れそうだった。狭い社会での識別記号としてなら『杉下さん』で問題なくここまで来ていて、苗字だけで何も不都合が無かったのだ。その所為か強い違和感がある。
「嫌いなタイプじゃないし、お肌も心も疲れてはいるけど、カッコいいオネーサマって感じだし?家出少年はそろそろ飽きたからさ、ココに住まわして欲しいの。改めてお願い!お願いします!!手ぇ出すなって言われたら手ぇ出さないし、肩揉みくらいするし、お遣いとかは役に立つよ?」
 目の前で手をパン!と合わせて拝み倒す仕草をする男を、力ずくで追い出すだけの元気は残ってない。テーブルに置かれたブラックコーヒーを一口啜る。そもそも思い返してみれば、どーにでもなーれ!と安易に住所氏名を公開した自分が悪いし、何かが起こる事を期待していたのは間違いなかった。自暴自棄の末の書き込みではあったが今すぐに死にたいと言うよりは、コンクリートの色をした重苦しい日常を極彩色の非日常に染め変えるものに出会えればもう少し頑張れそうに思えたからだ。
 結論を出した後もう一口コーヒーを啜って、男の顔を見る。軽薄そうな雰囲気のくせに、目元は人懐っこい。少年漫画の少しおバカな主人公を思い起こさせる、そんな年下の男。
 煙草に火をつけてから口を開く。
「一緒に住もうと思うなら、名前だけじゃなくて自己紹介くらいして。あと、犯罪者にはなりたくないから、未成年者や既婚者はお断り。」
「名前は昨日言ったでしょ?諒、ハタチ。未成年でも既婚でもない。家出してるけど、そのテの迷惑はかけないよ。よろしくね、葉月ねーさん。」



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