Mask

  ××区のマンションにて女性の遺体が発見されました。
  亡くなられたのはこの部屋に住む28歳の女性で、警察は同日中に出頭したS容疑者(25)を殺人の容疑で逮捕しました。
  また、現場に居合わせた35歳の男性については、命に別状はなく、警察は合わせて事情を聴く方針です。

  ◇ ◇ ◇

 黒いハイネックセーター、黒いスカート。ぼさぼさの癖毛も黒。何もかもが黒いその女は、促され、続きを話し始める。
 季節感の無い恰好だった。まだまだ夏日さえある夏の終わりにこのセーターは厚手過ぎるし、一方で擦り切れたような薄手のスカートと素足。化粧っ気の無い顔には引き攣ったような薄笑いが張り付いていた。
 ここまでの調書にもう一度目を通す。自ら警察署へやって来たこの女は、凡そこちらの質問に答える意思はあるが、頑なに順序通りに語っていて肝心の部分が聞き取れていないのだと苛立ったようなメモがある。
 これまでに聞き取れているのは女の成育歴と、現場に居合わせた気の触れた男性について。
 それとは別のファイルに被害者についてがまとめられているが、これらに何も間違いがなければ尚の事、意図が判らない。
 何年もこの仕事をやって来たし、わざわざ俺を御指名ならば、と出向いたもののこれは時間がかかりそうだ。嗚呼、もう一本吸ってから来ればよかった。
 被疑者とされる女の対面の椅子に座りながら、俺に泣きついてきた新人を軽くにらむ。もう一人立ちはとうにできているだろうに……と目で説教を一つ。その後女に視線を向けた。
 ここまでの聞き取り内容に間違いはない、と確認を取った上で続きを促した。

  ◇ ◇ ◇

――私はどうしても、欲しかった。手段は択ばない、と即座に行動に移しました。周囲の友人・知人、関りがあるとされる人物にはコンタクトを取り、下地を固めました。並行して心理学を学び、自分にとって事態が有利に運ぶように噂も流しました。勿論、彼と接触する時にもしっかりと行動心理学に紐づいて、です。『ペーシング』というものをご存知かしら?――そう、知らない。えぇ。普通必要ないですものね、そうでしょう。簡単に申し上げますと、呼吸のペースを合わせるのです。呼吸を合わせ同じリズムでコミュニケーションをとることで、信頼関係《ラポール》を築き上げる事です。そうすればパーソナルスペースに入り込んでくる私に対しての抵抗感を減らすことができますから。

  ◇ ◇ ◇

 どこか女がうっとりとしているのは気の所為だろうか。当時の事を反芻しているのかもしれないが、正直不気味でしかない。
 彼女の後ろで立っていた若手が顔をしかめている。心理学、というのが胡散臭く感じられたのか、今も我々に対して何某かのトラップを仕掛けているのか、と不安で仕方が無いらしい。
 俺はそんな事よりも、唯々不気味さで肌が粟立っていた。まんじりともせず、口だけが言葉を吐き出すそういうロボットとか、何か機械的なものを感じる不気味さだった。今までにだってもっと凶悪な、例えば連続五人殺傷の犯人だとか、そういった人間も見てきた。それとは大きく違う。別のベクトルの恐ろしさだ。

  ◇ ◇ ◇

――外堀を埋め、彼との距離を詰め、次にすることは通常ならば魅了する為に自身の身繕い等、所謂セックスアピールだと思うでしょう?でも、この場合はNGです。彼の性格の特徴である『ヒーロー願望』を利用していましたから。みすぼらしく、可哀想であることが必要だったのです。ですから後の私にできる事は然して有りません。でも、私はどうしても、手に入れようと必死でしたから、科学的なもの以外にも頼りました。所謂、ジンクスとかおまじない、黒魔術にも。結構身近なんですよ、そういったものも。私だって女ですから、子供のころから占いだとかそういったものには興味がありましたしね。運命の彼と結ばれる香水。願いを彫りこんで身に着ける指輪。自分の血液を混ぜた食品を食べさせる、相手の髪を左の小指に結び付けて寝る、魔法陣の中に二人の名前を書いて飲み下す、深夜零時に銀色のボウルに水を張って血を垂らし呪文を唱えて精霊を呼び出す、願い事を繰り返しながら剃刀で悪魔の名前を左腕に彫り翌朝傷が治っていれば悪魔召喚ができる。眉唾物のものでも片っ端から試してみました。恋する乙女心、というやつですね。

  ◇ ◇ ◇

 常軌を逸しているきらいはあるが、個々人でやっている分には目を瞑れる範囲だともいえる。何しろ肝心の彼氏に気付かれない、または言い逃れができるよう逃げ道を用意した状態で事に及んでいる。表面的な印象とはかけ離れているが、心理学がどうのと口にした辺りも含め、決して愚鈍ではなく頭が回る口なのだろう。
 先ほど眉をしかめて居た若手は想像力が豊か過ぎたのだろう青い顔を通り越して白い顔になり、所謂『ドン引き』の状態にあるようだ。それでよくこの仕事が務まるな、とも思うが確かに今の話は少しばかり気分が悪い。
 薄笑みのまま、女は一度小さな窓に目を遣った。かなり高い位置にあるそれは鉄格子が嵌っているし、破壊しようにもこの室内には古びたオフィスチェアと机くらいしかない。何を思ったかふ、と真顔になった後、細い溜息を吐いた。そして。
 女の目が見る間に光を失い、どろりと濁っていく。形容し難い、何もかもを飲み込みそうな……いつかのニュースで見た、光さえも捕らえるヴェンタブラック。

  ◇ ◇ ◇

――皆様はもっと先の事が訊きたいのですよね、お話しますわ、勿論。今更逃げも隠れもしませんし、後悔もありませんもの。――兎も角、私は漸く彼を手に入れたのです。一緒に暮らす生活は貧しくも楽しく、私と彼には幸せしかないものと思っていました。あの時までは。彼には年の離れた妹がいるとは聞いていました。でもまさか、血が繋がっていなかったなんて!赤ん坊の頃から知っている、今更アイツに欲情するわけがないだろう、と私を嗜めましたが知っているのです。彼が彼女によく似たセクシー女優で頻繁に自己処理をしていること、たまの休みに一人になりたいと言っては出掛け、その妹と連絡を取り、密かに逢っている事。

「それで嫉妬したのか、身勝手な理由だなおい!」
 嗚呼、コイツは駄目だ、現場に出すにはまだ早かった。怒鳴る若手を表へ連れ出すようにアイコンタクトを送ると、ドアの前に立っていた相棒が巧く連れ出してくれた。

――単なる嫉妬なら、もう少し可愛かったでしょうね。
   私は恐らく、取り繕い過ぎたんです。
   彼の理想に近付き、彼の傍に居るために何重にも仮面を被り続けた――

 それきり女は黙り込んでしまい、有益な話は出て来はしなかった。
 女は無言のままガリガリと体のあちこちを忙しなくひっかき始め、終いには足元に小さな血だまりができ、取り調べは一時中断となってしまった。

  ◇ ◇ ◇

「ここからは俺の調べた話と女の精神状態や認知からの想像だがな。」
 そう前置きしてから、紫煙を思い切り吐き出す。何度か止めようとはしたものの、未だに止められそうにない煙草だが、意外にも仲間は大勢いる。禁煙ブームや法整備の後押しの結果、喫煙所すらも無くされつつある中でどうにか残っている屋外喫煙スペースは今日も大賑わいだ。
「苦心して手に入れた『恋人』というポストに拘りがあった女は、自分以外を性的対象として見られることが嫌で嫌で仕方なかった。自家発電はおろか芸能人やグラビアアイドルを褒める事すら嫌がっていたらしい。場合によっちゃこっちでも引っ張れるくらいには嫌がらせをした形跡もあったとか言う話だ。んで、肝心のコロシについては、被害者《ホトケさん》憎さともちょっと違ってなぁ。彼が好意を向ける対象を排除するんじゃいつまでも終わらない、だから自分が成り替わろうとした、ってのが近いらしい。で、普通なら見た目や持ち物を真似しようとする所を、標的を殺害しその皮を自分が被ろうとしてたんだ。だから見た目に影響の出にくい毒殺を選び、死体の皮を剥いだ。で、その作業中に想定外の恋人の帰宅。……可哀想に、彼氏は頭がおかしくなっちまった、と。」
 缶コーヒー片手に電子タバコをふかしていた若手は『うぇっ』と小さく、えずく真似をしながらそれを聞いていた。
「先輩につまみ出された後、そう時間も経たずに中止しましたよね。あれって中で結局何があったんですか?」
「……とんでもねぇ女だった、ってのはもう一つあってな。信じられんことだがあの女、麻酔も何もなく自分の身体を削いでたんだよ。被害者《ホトケさん》とは体型が違うのは気付いてたか?……だから剥いだ皮を被れるように自分の皮膚を切り開いて肉を抉っていた。死亡推定時刻から出頭するまでの間に時間が空いてたのは、相手の女の皮を剥ぎ、自分で自分の腹を抉ってサイズ調整してた、そういうこったな。で、あの時中止になった理由も間に合わせの様に縫い合わせた傷口が裂けたから……と。」
「はああああああ?まじで頭おかしいっすよ、信じらんねぇ……無麻酔ってのも勿論ですけど、殺害に死体損壊が載ってたのそれだったんすね。」
 いつの間にやらすっかり短くなった煙草を灰皿に放り込むと、若手もそれに倣う。吹き曝しの喫煙スペースは寒くていけない。足早に自分のデスクへ戻ろうとした背中にもうひと声。
「でも、結局彼氏がイカレちゃったって話ですけど……言い方悪いっすけどあの女の自業自得っていうか。仮に釈放されたって、刑期を終えて戻ったって、今まで通りにはもう絶対戻れないじゃないですか。肩を持つつもりも何もないですけど、それでよかったんですかね。」
 空き缶を捨てて追い付いてきた若手に向けて振り返り、小さな声で、常人には理解できない、あの女から引き出した台詞を教えてやった。



――そうですか、もう正気に戻らない可能性が高い。ふふ。じゃあ彼の記憶に最後まで残ったの、私なんですね。もう他の女を気にしなくていいんですね、ふふふ。これで私、もう誰かの仮面を被らなくてもいいんですね。
――嗚呼、幸せ。


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