壊れていくこの世界で

 机にだらしなく上体を投げ出して、顔だけを窓の方へ向けていた。夏空とでも表現すればいいのか、目に沁みるようなくも一つないそれを、これまただらしなく口を弛緩させたまま見つめていた。
 教室にいるのは自分一人で、制服の皴も気にせずに長い間こうしていた。頬がぺたりと机に張り付いている感覚は既に遠く、自分がいつからこうしているのかも曖昧になった頃、その弛緩した口から無意識に言葉が転げ落ちた。
「あ。海が見たい。」


 思えば私は、思い付きで行動することが多かった。乳幼児の時分ならいざ知らず、学童期に入ってもそれは変わらず、周囲をざわめかせることがしばしばあった。
 ある時は、扉の向こう側が気になり過ぎてどうにか開錠できないかと思いつく限りの工具を振り回してみたり。
 またある時は、目の前にある衣服を総て解いててんでばらばらに再構築するという奇行に走り。
 そのまたある時などは、見知らぬ誰かが研究した平均値ではなく自分自身が、どのくらいまで飢えに耐えられるのかと食事を摂らずに過ごすこともやった。
 常識や歴史を疑い、思考や行動がその反対へと向かうことも多かった。つまりは、私はどこか、頭の螺子が抜けている、不良品であった。
 そんな私は今、異常とも思えるほどの軽装でひたすら歩いている。まだ見ぬ海を目指してかれこれ二時間ばかり黙々と歩いてきた。勘と、薄い記憶と、方向感覚頼みの遠出は、恐らく多くの人はやりたがらない。
 どこまで歩いても途切れない灰色の道は誰が作ったのだろう。街路樹はいつ、誰が、何故この品種に指定したのか。これまた恐らくは、多くの人にとってどうでもいい疑問を脳内で弄びながら、口を引き締め姿勢を正してひた歩く。凡その当たり前や常識を疑ってかかる私だが、いつか、目的地へ辿り着くはずだという事だけは疑っていなかった。
 なだらかな丘を越え、フェンスをよじ登り、草むらを蛇行して、歩く。靴底がほんの少し、削れた気がした。

 視界に邪魔ものがなくなった時、それが海だと気が付いた。空とは違う陰影、質感、いつもの教室とは違う臭いが鼻に刺さった。
 制服のスカートがバタバタと五月蠅い。海の風は湿気が多いのか、不純物の為か、空調も何も無いからか、私にはとても不快に感じられた。
 やっと足を止め、浅い知識と照らし合わせながら、砂まじりの道に足を進める。耳がむず痒くなるような、ざりざりとしたなじみのない音が自分の足許から聞こえてくるのが何とも気味が悪い。
「これが海かぁ……」
 特段、感動も感慨も、何もなかった。ただ、言葉だけは口をついて出た。
行き来する水の動きをじっと眺めて法則を見出そうとしたり、頭の中に入っている人づてに聞いた情報や図書室にあった本の中の説明書きと比較するのを堪能していると、遠くから私とは違う、きちんとした身なりの誰かがやって来た。
「――――――――――――」
 何かを私に話しかけているがうまく理解できない。頭の中で図鑑を広げる作業を止めて耳に意識を向けてやることで、ようやく理解することができた。
「どうしてこんなところに?」
「海が見たかったから」
「……許可証はあるのか? 所属は?」
 ばしゃあ、という水音に加えて、ドーン、と低い音を混ぜ合わせた不思議な音がした。私と目の前の誰かは同時に海を見る。水面にひときわ大きなパネルが降ってきて盛大に水しぶきを振りまいていた。大きなあぶくが幾つか出来て、ごぷり、ごぷりと欠片一つ遺さずに水が全てを飲み込んでいった。
「みんな、空は青いとか、海はきれいだって言うから、見てみたかった。」
 私はほんの一歩だけ、水面に近付いた。揺れる水はまだ数歩分先にあり、先ほどの嫌なざりざりした音や感触の代わりに、じっとりとこびりつく様な、沈むような重苦しい感覚を私の脚の裏が検知する。
 風を切る細い音、その後突風と衝撃が、私の数メートル隣を直撃する。ちら、と視線だけ投げれば、砂の大地に私の背丈よりもはるかに大きな金属パイプが垂直に突き刺さっていた。カラカラガタガタと音をさせながらその中をボルトが転げまわっている音もする。
 もう一歩進む。先程パネルが降ってきた所為で一度水が伸びた箇所まで来ると、靴底に熱を感じた。それから強い臭い。海というのは独特の臭いがあるものだとは聞いていたが、こんなにも生臭く、吐き気を催すものだとは思ってもみなかった。
「戻れ、おい――」
 誰か、は、もう一本落ちてきた大きいパイプで縦半分にスライスされてしまった。べしゃあ、と水の方へ倒れ込んだ半身はあっという間に緑味がかった黒の中へ飲み込まれ、あぶくになって消えていった。
 もう一歩。靴底が粘る感覚を憶えて身体を捩ると、靴底は溶け爛れ、靴下が見え始めていた。嫌だな、とは思ったがフェンスを乗り越えた辺りで既に涙は止まらなくなっていたし、痛みを感じることは無くなっていた。
 空は、本当は青くなんてなかった。特殊なフィルターの役目を果たすパネルの向こうには紫色が広がっていて、これが本当の空色だった。海も青いというのは嘘だ。水の音はするが、その上に暗緑色の何かが一面に広がっていて、総てを覆い隠している。
 本当は、私自身ずっと昔から知っていた。この世の生物は、特殊なコーティングの施されたマスクやシェルターの中でしか生きられない。種の保存の為にずっとずっと昔に誰かが決めたルールを妄信的に守り、それがスタンダードとなって今に至るだけ。教室に誰もいないのも、私以外があの教室に居ないだけ。遥か遠くの別の教室にはまだいるのかもしれないけれど。
 自分の体重を支え切れずにその場に膝をついた。水際まで近寄っていた私の左足と左手は腐り始めていた。私は顔を上げる。右の目玉が溶け落ちて視界が狭くなった。雲一つない紫色の空からはまだ、光りながらパネルの破片が落ちてきていた。


close
横書き 縦書き