アザミ

 唐突に、封じ込めてあったはずの記憶の蓋が開いた。カーテンの隙間から入り込む初夏の陽射しとは裏腹に、暗澹としたそれはぱかん、と開いたまま。ザワザワと落ち着かない胸に手を当て、左右に眠る娘と夫を眺めて深呼吸を一つ。
 箱の中身は、当時彼氏だった男の家に転がり込んで三年が経とうとしていた頃の話。不愉快にしかならない筈のそれは、ふとした拍子に浮かび上がってくる一種の呪いのようなものだった。
 またこれか、と思いながらするりと布団から抜け出して寝室を後にする。少しばかり起き出すには早かったが時間の潰し方ならいくらでも知っているし、何より、当時の事を思い出す時には家族と離れていたかった。
 キッチンの隅に置いた折り畳みの椅子を引っ張り出し、座り込んで目を閉じる。瞼の裏で、見慣れた上映会が始まった。

 安月給の癖に大喰らい、必要無い程の親への援助、保険に家賃に携帯代。男が使う金を差し引くと殆ど残らない給料から私に渡される金額は週に五千円ぼっちで、それで二人分の夕飯と私の就活費用、生活用品を賄えというのは難しかった。
『お前を養っているからだ』と頻繁に殴られた。 働こうにも履歴書用の証明写真を撮るお金すらないというのに。
 第一、男が満足する食事を出すには日に千円など優に超えてしまう。 レシートを見せようが一緒に買い物に行こうが理解できないようで、殴る蹴るの暴行は日常の一部だった。
 月のモノが狂い始めた頃、望まぬ行為で妊娠した。堕ろす費用など無い、と殴られ真冬の明け方にご丁寧に氷まで入れた水風呂に放り込まれた。 歯の根が合わず顔色は青から白に変わる。
 それでも腹の中の命は私にしがみついていて、余計に男は腹を立てたらしく私の首を絞めた。私が気絶している間に何度も下腹を殴る蹴るしたらしい。意識が正常に戻った時には、血を垂れ流しながら風呂場に放置されていた。
 どうにか立ち上がったものの、部屋の中には誰も居らず、浮気相手の所に行ったらしいメモが残されているだけだった。ワンルームの短い廊下で零れ落ちる血と小さな命を拭うことも無く立ち尽くす。
 どれだけ殴られようと、理不尽に責められようとも 『家に帰る』という選択肢は無かった。というのも、両親ともにあまり常識的な人物とは言い難かったし、姿形さえ朧げな程度にはどうでもいい人達で、出来得ることならば関わり合いになりたくないし、どこか遠い所でサクッと死んでいてくれないかなぁとしか思えなかったのだ。
 後ろ盾は何もない。けれど、限界はある。私の中の何かが崩壊した音を聞いた。
 密かな覚悟を胸に、帰ってきた男に何度も頭を下げた。歯を食いしばって屈辱に耐えた。涙はもう枯れていた。
 以降、男の望みはなんでも叶えた。 酒が飲みたいと言われれば盗んででも用意したし、遊びに行きたいと言われれば服や持ち物、 全ての支度を入念に済ませて笑顔で送り出した。豪華な食事を作り、求められれば身体を与えた。 従順にふるまい、殴られても自ら頭を下げて笑い、その他の家事も手を抜かない。
「そうなの。流石ね!」
「すごいじゃない。立派だわぁ。」
「それは酷いわ、あなたは悪くないわよ。」
 褒めて、おだてて、宥めて。 求められる役を演じ切る。 どんなにくだらないことであっても大げさなリアクションをし、男の気分をよくする為ならば応じる。それが例え私の首を絞める様なセックスであっても。
 男はある日、会社の先輩だと言う男性を連れて帰ってきた。私が居る事を他者に知られたくない男にしては珍しい事で、驚きながらも卒なく対応する。
 客人は私へもにこやかで、男と共に流行りのゲームに興じる合間に食事を出すと喜んでくれた。勿論、私の居場所は無い。
「なぁ、お前・・・・・・ 彼女の分はいいのか?」
 私の食事が無い事に気が付いた男性が言う。それを鼻で笑いながら男は言った。
「いいんだよ、コイツは。俺が養ってやってるんだし。」
 申し訳程度に野菜クズが浮いた薄いスープを台所で啜っていると男性がやって来て何かを渡してきた。 小さな、チョコレート菓子だった。
「貰ってやって。飯、美味かったから。」
 お礼にもならないけど、と自嘲する男性を見て、私は思いついた。

 男性は頻繁に我が家にやって来るようになった。パチンコで勝ったから、ゲームをするから、を言い訳に我が家にやって来てはコンビニ弁当や宅配ピザを私に振る舞い、男を連れて三人でラーメン屋やファミレスへ行く。
 他愛ない話の中で、共通の趣味がある事を発見すると、二人きりでも出掛けるようになった。激昂するかと思われた男は、私が出かける事を喜んだ。浮気相手を家に呼ぶことができるからだろう。どうでもいい事だった。
 男性と仲良く話すようになって数か月、私は言った。
「あなたの彼女になりたい。」
 今までの男の振る舞い、言動を一から十まで涙交じりに、時には誇張して語って聞かせ、囚われの姫であるかのように演じて見せた。別に演技に自信があるとか経験があるとか、そんな訳でもないのに彼はコロリと騙されてくれた。
 二人で住む場所を用意してもらい、家具を入れ、寝具を揃えた。 二人の新居は手狭ではあったが十分な食事と心身のゆとりがあって、彼も満足そうに微笑んでいた。
 春になって私は、僅かな私物をダンボールに放り込むと何一つ痕跡を残さぬよう男の家から逃げ出した。 男が浮気相手の家に行った深夜の事だった。
 ダンボールは重いし邪魔だというのにペダルは軽く、男の家から離れていく程に空気さえ味が違う様に感じられた。
 男の家には合鍵だけ置いていった。明日から始まるのだろう穏やかな生活を夢見て、真新しい布団の中で男性と手を繋ぎ眠った。
 どうして、あんな男にしがみついていたのだろう。離れてみれば不思議で仕方が無かった。一方でこの男性はどうして私に優しくするのだろう、と不思議に思いながら日々を過ごす。何度問うても、納得のいく返答は得られなかったが、男性はとても悲しそうな眼をするものだから私はそれ以上を訊くのを止め、その優しさに甘えた。
 眠っている最中に叩き起こされて身体を求められることも、眠りにつくまでマッサージをさせられることもなく、ただただ優しい夜が訪れる。男性は当たり前だ、と笑っていたけれど同じものを同じように食べ、同じように衣服を与えられ、財布の中身が乏しくなれば二人で質素な食事を分け合った。
 痣だらけの腕も所々抜け落ちた髪も目立たなくなると、男との生活や実家のことはまるで悪夢だったのかもしれないと感じることが増えた。
 夏が来る頃、敢えて私は男の家の前に行き、帰りを待っていた。男性から聞いた限りでは今日は休みの筈で、どうせ遊び歩くだろうと行動パターンを読んでの事。
 初夏というには日差しが強く、ただ立っているだけでもじんわりと汗をかく様な日だった。
 駐輪場に現れた男は出掛けようとしていたらしく、余所行きの格好だった。男と目が合う。 アパート前にいる私を見つけるとすぐ様追いかけてきた。
 釣れた!――言い争いをしている体で現状を確認する。
 私は男の家を出るまでの間、必要以上に尽くしていた。男がただ椅子に座っているだけでいいように、テレビのチャンネルを変える事も、風呂上りに体を拭いてやることもやった。時にはテレビやゲームに夢中の男の隣に座り、口に食べ物を入れてやるところまで。乳幼児の世話を焼くように生活の総てを私に依存させた。
 そこから一転して、自分を持ち上げてくれる人が居なくなり、家事が滞る。 清潔は保たれないし、一度甘やかされたら以降も甘やかされていたいのが生き物の常だ。逃げ出した私が我慢ならなかったのだろう、顔全体で怒りを表現した男は恐ろしい筈なのに、酷く滑稽だった。
 ある程度の距離を会話で稼ぎ、その後、私は全力で走った。時折後ろを振り返り、男がついてきているのを確認しながらひた走る。男は十分に体力はあった筈なのにマトモな生活をしていないのだろう、すぐに息が上がってきたらしい。それに合わて減速してやる余裕すらあった。
 走って、走って、走った。男の家からそう遠くは無いけれど、住んでいる人間の種類も違うエリアに入り、饐えた臭いのする小汚いアパートや廃屋ではなく、モダンな造りのハイツやマンション、手入れされ公園が増えた。新居が見えた。わざとらしく怯えた振りをしながら家に入る。 手が震える様を演じ、半開きのドアを解放、侵入される。
 男は私を玄関先で殴りつけた。けれど痛みなど感じない。もっと、もっとかかってこい!そう願いながら煽る言葉を口にした。 殴られる度に悲鳴を上げ、派手に倒れこむ。
 興奮冷めやらぬ儘、怒りを性欲に変えて私を犯そうとする。覆い被さってきた男からは饐えた臭いがした。あの、古くて汚い、安アパートでの理不尽な生活。 耐える日々を思い出す。これで、決別できる、全て終わるのだ。
 抵抗する素振りを見せながらそれを受け入れて、笑顔にならないよう努める事だけに尽力した。 すすり泣く私の首を締めて猿のように腰を振る男は、もう怖くない。
 晴れて恋人となった男性が帰ってきた時には、私は如何にも 『暴行されました』という風体で高笑いをしたままだったらしい。病院に連れられ、警察沙汰になった。

 男をストーカーに仕立て上げて、強姦の証拠を残す。自らを使った陳腐な復讐劇は誰にも言える筈も無く、厳重に蓋をして深い場所にしまっておいた。けれどこうして、不意に浮かび上がってくるこれは、きっと水死体のようなものなのだ。
 水死体は重石をつけて沈めようとも腐敗ガスと共に浮かび上がってくると聞いたことがある。恐ろしく、汚らしく、おぞましい過去の遺物。見たくも無いし、他者に見せる必要も無いそれを私はまた強引に追いやって、重石をつけて沈める。何事も無かったかのように。水死体と同じように、いつかはきっと深い水の澱となって気にならなくなる日が来るのだ。
 今の私は、あの時連れ出してくれた男性との間に可愛らしい子供をもうけ 『幸せそうな奥様』という体で暮らしている。
 しかし、夫と娘には悪いが私は二人を愛してはいない。というよりも、感情というものがどうにも働いてくれないのだ。ただ、あの頃よりも居心地がいいことは間違いなく、これが『幸せ』なのだろうと自分に言い聞かせながら、朝食の支度をはじめた。
 起き出してきた娘がおはようの言葉もそこそこにリビングの掃き出し窓へ近付いた。『まま、おはな、さいたよ。』と呼んでいる。 軽く返事を返してその隣にしゃがみこむ。
 引かれたカーテンの向こう、庭の隅の小さな花壇には朝陽を浴びるアザミの花が揺れていた。


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