18cm250gの良心

 右手に握ったナイフがぬるりと手の中から逃げ出して、血だまりの中に落ちた。
 黒い持ち手はぬらぬらと光り鈍い銀色だった刃先はこぼれ、ペッタリと血脂に塗れている。もう一度、指先で摘んで持ち上げると朧気なライトの光を受けてシルエットを浮かび上がらせた。
「ねぇ、上村さん。 覚えてる?このナイフ。」
 視線の先にはくぐもった叫びを上げる女。
 あの頃よりは少しだけ肉付きがよくなっているけれど、雰囲気は変わりようがない。序にマスカラの濃さ馬乗りになったその下、もう一人の女は先程まで私に罵声を浴びせ暴れ続けていたのが嘘のように静かだ。どうやらこちらはもう、逆らう元気もないらしい。若しくは、既に虫の息なのかもしれない。
「鈴木さん。貴方そんなに物静かなタイプじゃあないでしょう?昔みたいに騒いでくれてもいいのよ。」
 右手に再度収まったナイフのグリップを握り直して一度強く振れば、コンクリートの床に花が咲く。赤、赤、赤。殺風景で埃っぽい小さな倉庫には、切れそうになった電灯以外に色などない。
 その中にパッと咲いた赤は現実感に乏しく、それでいて妙に生々しい。
「あ。そうだった。 私の声、気持ち悪いから聞こえないって言ってたのよね。じゃあ聴こえない耳は必要ないわよね?」
 茶色い髪の隙間から覗く耳を掴み、ヒタリと刃先を当てる。
 ごめんなさい、と小さく聞こえた気がしたけれど、私の妄想に違いない。強くグリップを握り刃を押し当てた。
 にぢにぢと変な音がする。
 毎日のように包丁を握ってはいたけれど、普段まな板の上でカットする豚肉とも牛肉とも違う感触、それから手応え。軟骨に当たったのか刃は進まなくなってしまった。しかもまた暴れ出した所為で血が溢れ、狙いが定まらない。
「そう、苦しいの。そうよね、出血が多すぎる。……ちょっと待っててくれる?」
 立ち上がり、少し離れたところに置いた幾つかのビニール袋の中から、私はガスバーナーを取り出した。 調理用のコンパクトバーナーは、ガスボンベをセットするとすぐに使える。
 トリガーに指をかけて点火、青い炎が一瞬にして生まれ私の顔を照らす。
「止血しなきゃ。ね?」

 * * *

「アイコちゃーん、コレこんなヤッちゃっていいの?」
 視界が揺れている。耳障りな誰かの息、張り付く髪の毛、粘つく口腔内と関節の痛み。
 赤と黒と白が何度もチカチカと瞬く。
「アタシはどーでも良いけど、この後売るんじゃなかった?」
「それな!でもまぁ……」
 酸欠の頭はまだぼんやりと霞がかっていて、途切れ途切れにしか音が聞こえない。鳴呼、安物のスプリングが五月蝿い。
「あっ、けは」
 更に強く首を絞められた。男が腰を振る速度が上がっていく。何度も何度も無理矢理突っ込まれて少し裂けた部分に不快感が垂れて来て、自分が気を失っている間にも何度か中で出されていることに気がついた。
 私の初めては名前も年齢も知らない人で、クラスの誰かの彼氏の先輩か何かで散々な目にあって終わった。その後もこうしてよくわからない人達にめちゃくちゃにされて、今度はとうとう見知らぬオヤジに売り飛ばされるようだった。『女子高生、というだけでイイ』らしい。
「......あの、上村さ 「喋んなキメェよブス」
 何人分かも判らない体液を拭い、制服を着ながら恐る恐る話し掛けたらこれだ。
 目線は手許の携帯電話の画面に向いている。私を犯した男達はとっくに身支度を整えていて、私を見下ろしながら「さっさと出てけよ」と嗤っていた。
 息つく暇も無くキツい芳香剤の匂いが充満した車に押し込められて移動する。私を家まで送っていく為だ。
 助手席に座っている上村さんは運転席の男といちゃつきながら私の悪口を言う。でも、それよりも親への言い訳を考えるのに必死だ。既に空は濁っ黒に染まっていて、私は現在時刻が判らない事に怯えていた。せめて父が帰る二十二時迄に家に着きたい。両親共に助けを求められるような人種ではないのだ。 こんな事を相談なんてできるはずも無い。
 居心地の悪い知らない人の車の中で俯き、小さくなりながら頭だけをフル回転させるのにも、いい加減に慣れてきた。
「そーそー、新しいコート欲しいからさ。 持ってきてよ、三万くらい。」
 不意に話し掛けられて顔を上げる。上村さんは鏡を覗き込み化粧を直しているらしい。濃いアイメイクにマスカラを重ね過ぎて最早顔の印象がよくわからない。
「お前がチンコ咥えてる写真バラ撒いてもいいし、なんなら家に火つけてやろっか?」
 鏡越しに彼女は私を嘲った。目が合うことが怖くて視線を逸らすと、どうやら自宅の近くまで来ていたことがわかる。
 すぐ近くの駐車場に車が止まり、後部座席のドアが開かれる。取り上げられていた靴を投げつけられて小さく呻くと同時にネクタイを掴まれ、強引に引き寄せられた。
「五分だけここで待っててやるからさ、コート代早く取ってきてよ。」
 靴を強く抱き締めて震える身体をどうにか抑え、渋々小さく頷くとネクタイを引く手が緩み、一応の自由が戻ってきた。小走りで家まで戻り、自室へ駆け込む。 ありったけの金品を引っ掴み、母には適当な嘘を並べ立てて再度外へ出ると煙草に火
をつけて嗤う上村さんが言った。
「なぁんだ、つまんねぇの。火事が目の前で見えるかと思ったのに。 空気読めよクソが。」

 * * *

 何か所かバーナーで炙って、更にナイフを突き立ててはみたものの、鈴木さんはもう動かなかった。彼女は上村さんとつるんでいただけで、直接的に危害を加えられた事は少ない。これ以上自分の体力を削るのも嫌で、私はナイフを振り下ろす
のをやめた。
 立ち上がる私に何か言いたげな視線を投げ続けていた上村さんの口のガムテープを引き剥がす。勿論、遠慮など無い。少しばかり皮でもめくれたのか薄っすらと血が滲んでいた。
「なんでこんな……なんなんだよ、誰なんだよお前!」
 相変わらず口は悪いし、偉そう。それに何より、私のことを覚えていないと言う。すう、っと頭の中が冷えていく。加害側は覚えちゃいない、というのは本当らしい。
「こういうことは、したくなかったんだけどね。」
 私は隅の方に転がして置いた黒いゴミ袋に目を向けて足を踏み出す。 ふざけんな、だのぶっ殺すだのと口を開けば暴言が出てくるのはあの頃と変わらない。
 ゴミ袋は重かった。 破れないように三枚重ねにしておいたが、上の方だけ持とうとすると袋が伸びて破れてしまいそうだ。渋々抱きかかえるようにして持ち上げ、上村さんの目の前まで歩を進める。
 何が出てくるのかわからないからか、怒りなの恐怖心なのか、目はつり上がり顔だけが青白い。尤も、そういうメイクが流行っているのかもしれないし、彼女の本心等知る由もない。ただ、少なからず精神的にダメージを受けてくれると信じて頭上から袋の中身をぶちまけた。
「ひ、 えぎゃあああああ!」
「そんなに叫んだら、口の中に入っちゃうんじゃない?」
 中身は血。それから臓物、爪、指。服も髪も赤黒く染まり異臭を放つ彼女に向かってニコリと微笑む。狂ったように叫ぶのを尻目に、もう一つの包みを持ち出す。 丸く膨らんだビニール製のショッパーは、その昔彼女が私に万引きを強要したギ
ャル服ブランドの物だ。
「上村さんは特別。 これもあげるわ。」
 聞こえていないかもしれない、と髪を掴んで引き寄せる。拘束はしてあるものの激しく暴れ回るものだから少しばかり力が要ったが、中身が何か気が付いた瞬間ピクリとも動かなくなった。
「デキ婚だけど幸せだって、 SNSに書いてたよね。とってもよく似てる。」
 袋の中身を取り出して差し出した。力加減を間違えて眼球が1つ零れてしまったけれど、原型がわかるようにあまり傷つけてはいない。だからきっとこの首が誰のものかはすぐに気が付いた筈。
 叫びにならない叫び、とはこういう事を言うんだろうとしみじみ思う。 言葉にはならず細長い、引き攣ったような奇声を上げて――それは、いつかテレビの中で観た、ブレイクダンスの様に。転げまわって、のたうって。
「……知ってる?私が産んであげられなかった三つの命も、本当ならこの子くらいになってる筈だったのよ?」
 聴こえてはいないだろうけれど、言葉は続く。
「一人目の子は、貴女も知っての通り。どうしてくれるの、って私が泣きながら言ったのに、上村さんはこう答えたのよ。『もう孕みようがねぇんだから毎日客獲れよクソマ×コ!』その子が流ちゃって私が泣いていたら『暫く客獲れねぇのかよ役立たず。』そのあとの二人目は流石に病院を紹介してくれたけど、相手の欄が空白だったから苦労したわ。三人目は……貴女はそのまま退学していったからよく知らないでしょうね。五か月まで生きたの。私のお腹の中で。貴方が『妊娠したからガッコ辞めます、彼氏と結婚するから』って笑いながら職員室へ行ったのと入れ違いに、私は指導室を出たのよ。 膨らみ始めたお腹を指摘されて妊娠がばれてね、そのまま入院、中期中絶よ。ねぇ、知ってる?中期中絶ってね、薬で陣痛を起こして無理やり産むのよ。 生きたがってる我が子を流産させるの。 陣痛に麻酔なんて無いから痛い、痛いって唸ってたら医師と看護師総出で私の事を叱り飛ばした。『貴方が遊びでセックスなんてするからこうなるのよ、本当につらいのは殺される赤ちゃんでしょう!』ってね。ねぇ、貴女にわかるの?ちゃんと人の形をした我が子が、粗末な薬品の紙箱に詰め込まれてるの!外から見えないように黒いゴミ袋に包まれて渡されて、挙句の果てに裏口からこっそりと帰らされる屈辱が!」
 ヒートアップして声はいつの間にか大きくなっていたらしく、音の無い筈の倉庫の中にキンキンと余韻が響く。 飲み下していた記憶がごぶり、ごぶりと込み上げてきてその場で嘔吐した。胃液ばかりで苦しいけれど、そんな事は今はどうでもいい。
 暴れまわっていた上村さんは焦点が合っているかも怪しい目で私を見上げる。うつ伏せのまま首を僅かに捧げ、ぽつりと、言葉を吐いた。
「お前……****?高校んときの……」
「違うわ。 私は新しい名前と後ろ盾を手に入れたの。」

 * * *

「自殺でもするつもり?」
 深夜二時の国道を跨ぐ歩道橋、そのど真ん中でどうやら私は一時間もぼんやりとしていたらしい。
 話しかけてきたのは黒いスポーツブランドのジャージを身に着けた、同世代位の男だった。
 中絶、高校退学の後、両親の目を盗んで飛び出して数日。唯々世間体がどうの恥だのなんの、と私を詰るだけの両親から逃げ出して名前も知らない町へ辿り着いていた。勿論、何も知らない上に何も持っていない私が生きるには万引きやゴミ漁りをするしかなく、惨めな生活を送っていてお世辞にも綺麗とは言えなかったというのに、気味悪がるわけでもなく話しかけてくる男には正直此方が引いてしまった。
「……何もしないから、ウチおいで。」
 差し出された手を取っていいものか迷った。けれど、これ以上失うものなどないと気が付いて結局は男に着いていった。
 古い戸建てに案内され、すぐに風呂に入るよう指示された。頷き一つだけを返して風呂を借りる。あるものはどれでも好きに使え、と言われたのでシャワーで身体中を流した後、何種類もあるシャンプーやボディソープを物色し、身体中を清め、昭和感あふれる湯船に浸るととてつもない眠気に襲われた。
 ――私が、何をしたというのだろう。
 万引きの強要や金品の要求をされるようになってからずっと考えている。記憶を手繰っても、地味に、静かに高校生活を送ろうと努めていただけだ。
 たかが十五、十六で人生を語るなんて烏滸がましいと笑われようとも、高校に入ってからの一年弱が酷過ぎてどうしようもなかった。
 涙ごとシャワーで洗い流して浴室を出ると、脱衣所にタオルとグレーの大きなパーカーが置いてあり、さっきまで着ていた私の服は見当たらなかった。女性ものは無いらしく、真新しいトランクスが袋のまま置かれていたのでまとめて拝借することにした。
 恐る恐る脱衣所を出ると暗い廊下で、一歩進む毎に古い家にありがちな床板の軋む音が鳴る。左手、玄関とは反対方向に居間と思しき明かりが見えたのでそのまま進んだ。もしもまた乱暴されようと、これ以上酷いことにはなりようがないのだから。
 半開きの戸を開けると多種多様の煙草の匂い。それから、複数の視線。
 先程の男が心配そうに此方を見ていた。勧められた椅子に座り、話を聞けばここは某暴力団の息が掛かった下っ端も下っ端の溜まり場らしい。
 堕ちるところまで堕ちたな、と思わなくも無かったが一度死んだと思ってやり直せばいい、と両親にさえ言われなかった言葉を掛けられ労わられればコロリと絆された。いかにもな強面の大男も、入れ墨だらけの若い男も、私が体験したことを聴けば引いていたし、パーカーの裾から見えた根性焼きの跡から嘘ではないと察したらしい。
 身体でも労力でも差し出すからここに置いてくれ、と頼んだ。 行く当ても無く、このまま野垂れ死にするのを待つだけの筈だったのに、勝手に懇願の言葉が口から飛び出したのは、私はまだ死にたくはないという事だろうか。今更、生にしがみつく必要も理由も無い筈だったのに。自嘲すると同時に、ここへ連れてきてくれたジャージの彼が年長のヒゲの男性に頭を下げて一緒に頼んでくれた。
――後になって知ったが、 何度か私の事を見かけていたらしい彼は、今にも死を受け入れそうな私の事が気になって仕方が無かったらしい。
 こうして私は裏家業の世界のほんの入り口に立ち、第二の人生を送ることになった。新しい名前を貰い、飯炊き婦として、その後、あの若者の妻として。
 短く陰鬱な高校生活が遠く感じられるようになる頃、過去の中絶が原因で子供が望めないと知って静かに泣いた。別れを切り出したにも関わらず、彼は別の事を考えていたらしい。鋭い目は私を見ていなかった。

 * * *

 一つしかないドアの開閉音がした。それと同時に聞こえる足音に私は安堵する。
「終わったのか?」
「うん、ありがとう。 私の我儘を叶えてくれて。」
「俺もツラ拝んどきたかったんだよ、構わねぇ。」
 背中越しに返事を投げて立ち上がると、彼の方へ向き直った。
 ヤクザだチンピラだと言っても、全員が全員物騒な事をしている訳ではない。表立って暴力を行使する等時代に合わないらしく、今ではIT関連の仕事や土地転がしで稼ぐサラリーマンとそう変わらないとも聞いた。
 けれど偶に、彼はこういう目をする。 細い目を更に細めて、何か恐ろしいことを考えている顔。彼の仕事総てに携わっているわけではないから知らないだけで、本当は血生臭いこともやっているのかもしれない。
「おい、これじゃ腕も脚も自由だぞ。 ······火ィあんだろ?」
 彼は大きな肉切り包丁のようなものを持ち出した。私はバーナーを持ち、いつでも点火できるようにして傍に控える。
 何かを察してまた暴れ出した上村さんを尻目に、彼は膝で手を押さえると素早く刃物を振り下ろした。想像したバツン、ともブツン、とも違う音と同時に指が四本跳ねた。同じように親指にも、反対の手も足の指も同じように叩き落とす。
 その間も獣じみた叫びを上げ続ける上村さんが五月蠅くて仕方がない。私は指の無くなった不格好な手と足を焼いて止血する。
「不思議なモンで、指が無いと踏ん張りが効かねえし歩けねぇんだ。俺は頭悪いけど、悪知恵だけは働くんだよ。」
 腰の上を目掛けて彼がコンクリートブロックを何度か叩きつけた。途中で急に叫び声が変わったから、骨にヒビ位は入ったかもしれない。
「俺が会えなかった三人のガキの痛みにゃ足りねえけど、こんなもんだろ。じゃあな。」
 差し出された手を取り、私は踵を返す。指を絡めた手はあの日と同じ大きさと体温だった。違うのは、二人して赤く染まっている事だけ。
 私の分まで泣いてくれた優しい彼にこんな汚れ仕事をさせるのは気が咎めたが、その感覚もいつの間にか消えてなくなっていた。やっぱり私の中に良心など欠片も無くなったのか、と暗澹とした気分になりそうな刹那、ふと思いついて彼の手を離し、上村さんの方へ駆け戻る。
 叫び通しで優れた声で呻くだけだった彼女の目、一瞬その目が希望を宿して輝いた気がした。
「もう、身動き取れないものね。気が利かなくてごめんなさい。」
 私は放置されていた彼女の子供の首を傍らにそっと置いてあげた。これで寂しくないでしょう。自分の子供だもの。
 その子が腐って崩れるのか、上村さん自身が発狂するのか、死ぬのか。 この先の事など私は知らない。この場所は上の団体の持ち物で、許可をとって使っているだけだ。シノギの一つの不法投棄の為の場所で人など滅多と訪れない。ただ、痛みと恐怖と怒りに巻かれ、朽ちていけばいい。
 数年前三人目の子供と一緒に常識も良心も失くしたのと同じ今日、私は漸く悍ましい過去と決別した。幕切れのBGMは彼女の悲鳴を遮る、扉の閉まる音だった。

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